「悪手」をあえて指し
対局相手を困惑させる

 その要因の一つに、一般的に「悪手(望ましくない手)」とされている手を意図的に指すなど、あえて「最善手」を避けることで相手を困惑させる技術がある。

 多くのプロ棋士が、相手が「良い手」を指してくることを前提に、AIを使った対策に躍起になっている中、盲点を突いているのだ。

「相手が(対応策を)研究していない可能性があるから、こっちは悪手だと分かっているけれど賭けに出る。相手がクリアしてきた場合はもう1回続けます。三つほどクリアされると困るのですが、その確率は低い。5%もないだろうなと踏んでいます。さまざまな局面の『解』を調べ尽くすのは難しいですから」

 仮に相手が全てに対応してきた場合でも、「悪手を“見せ球”として見せておいて、もうやらなければいいだけです」と渡辺名人は割り切っている。

 こうした指し手を考える際は、対局相手だけでなく「他のライバル棋士にどう見られているか」といった要素も意識しているという。

「盤上の相手だけではなく、年間を通して対局する上位棋士30人と同時に戦っているイメージです。『Aさんに対してこの戦法でいったら、Dさんはこういう風に研究してくるな』と、ある程度先まで見てローテーションを決めています。プロ棋士同士で会話はしなくても、腹の探り合いをしているのです」

 そして、いざ次の敵と対局する際は、相手がAIを使って研究してきた戦略を先読みし、さらにその上を行く戦略をぶつけるのである。AI活用だけでは身に付かない機転を利かせ、棋士たちとのせめぎ合いを制する力こそが、渡辺名人の強さの秘密なのだ。

最後の数手で逆転もあり得る
その魅力は今も変わらない

 また、AIに頼りすぎず、その算出結果に対して「それはなぜか」と突き詰めて考えられる思考力も、渡辺名人の棋力の源泉になっている。

「AIは『この手が最善』と示してくれますが、その理由までは教えてくれません。そのため歩兵一つにしても、なぜその位置に置くとAIの評価スコアが高いのかを納得できるまで考えます。『なぜ』をクリアできないと、その戦法は使えないのです」

 いくらAIが普及したとはいえ、プロ棋士は対局中にスマートフォンやパソコンを見ることはできない。生身の人間同士が向かい合ったとき、最後にモノをいうのは勝負師としての勘や、土壇場でのシビアな指し手を生み出す判断力なのである。

 そして、プロ棋士の“人間らしさ”がぶつかり合う対局の面白さは、AIが普及する前から変わっていないと渡辺名人は言う。

「午前9時から午後7時の対局があるとすれば、ラスト3時間くらいを見れば充分楽しめるはず。最後が面白いのは10年ほど前から変わっていません。最後の何手かで形勢が逆転しますし、トッププロ同士でも残り1分で間違えます。そこのゲーム性が将棋の一番の魅力なのです」

 AIを有効活用しながらも、「人間ならではの強み」を忘れない――。渡辺名人のAIに対する向き合い方は、将棋だけでなくビジネスでも重要になり得る。

 対談で聞き手を務めた経済学者・入山章栄氏は、将棋とビジネスの共通点を次のように解説する。

「AIは(経営などにおいて)答えらしきものは出せるが、それがなぜかは説明できません。でも、それでは人は納得しないし、他の人を納得させられない。将棋の世界で勝っている渡辺名人も、AIがない時代から培ってきた思考力を生かしています。ビジネスでも(自分の頭で)仮説を立てた上で、『なぜこうなるのか』をAIで検証する取り組みが必要です」

 ダイヤモンド・オンラインの対談動画(全4回)では、本稿で触れていないポイントも含め、渡辺名人の「30代になってからの伸びしろの作り方」「先手を打ち続けることの重要性」「モチベーションの保ち方」などを詳しく紹介している。

 渡辺名人の哲学を知り、その神髄をビジネスに生かしたい読者には、ぜひスキルアップや学びに活用いただきたい。