南満州鉄道総裁の後藤新平と
東武鉄道社長の根津嘉一郎

 早川はこの頃、政治家志望だった。そして政界において後藤新平こそが最も将来ある偉大な人物だと考えた。早川は後藤の知遇を得ようと、いきなり「意見書」を送りつけるが、気に入られて、後藤が総裁を務めていた南満州鉄道の秘書として採用された。ところがすぐに後藤が桂内閣の逓信大臣に就任することになり、満鉄総裁を退任。早川も後を追って退職した。

 早川は考えた。有力政治家になるためには官僚として頭角を現す必要があるが、それには高等文官試験に合格する必要がある。しかし、試験に受かる自信がなかった早川は政治家の道をあきらめ、実業家の道を志すことにした。では何をするかと考えた時に、わずかな期間ながら満鉄にいたことから、鉄道業を選んだのである。

 早川は一途で頑固なところがある一方で、あっさりと考えを変えてしまう一面がある。早川は後に「私の最初の希望は政治家でありましたが、周囲の情勢やら、自分やらを考えてみると、とても見込みのないことが分かった。私は常に『よりよきもの』があれば、それに転向します」と語っている。これは後述するロンドンでのエピソードに通じる話だろう。

 早川にはもうひとつの信念があった。ある仕事で名を成すためには、下積みから出発し、まず下を覚えてから上を望まなければならないと考えていた。

 そこで早川は、再び後藤新平を頼る。鉄道院初代総裁となっていた後藤の手引きで鉄道院中部鉄道管理局(現在のJR東日本の遠い遠いご先祖)に入局し、ここで駅業務、荷物業務から庶務まで、鉄道の現場業務を一通り体験し、会得した。

 そんな早川を抜擢(ばってき)したのが同じ山梨出身の実業家で、東武鉄道社長の根津嘉一郎である。根津は早川に、まず佐野鉄道(現在の東武佐野線の一部)、次いで高野鉄道(現在の南海高野線の一部)の経営再建を任せ、彼は見事にそれに応えた。

 次に早川が選んだテーマが「港湾鉄道」だった。当時、大阪港は防波堤や桟橋の工事が完了したばかりだったが、ほとんど船は来ず、市民が釣りをするばかりという状況だった。そこで港湾における貨物輸送を研究しようと思い立ち、先進事例を視察するためにイギリスに渡ることにしたのである。

 ところがロンドンで早川の心をつかんだのは、港湾鉄道ではなく地下鉄だった。「よりよきものがあればそれに転向」する早川は、当初の研究テーマを投げ出し地下鉄に没頭していく。