早川以前からあった
東京の地下鉄構想

 この「出会い」は散々語りつくされたエピソードなのだが、一つ、二つ補足しておきたいことがある。

 まず、地下鉄の父として伝説化された早川は、媒体によっては、日本では知られていなかった地下鉄を初めて「発見」した日本人として語られることさえあるが、(当たり前だが)そうではない。古くは幕府遣英使節団の一行が、開業間もない地下鉄・メトロポリタン鉄道に乗車した記録も残っている。

 構想レベルでも、東京の都市計画を策定するために明治21年に設置された東京市区改正員会が、将来はロンドンの地下鉄道あるいはニューヨークの高架鉄道のような路線が必要であるとして、一部区間を地下鉄として建設する路線構想を検討している。

 またその後、1906年に福澤諭吉の婿養子である福澤桃介らが中心となって、後に早川が出願するのと同じ品川~浅草間に一部高架、一部地下の都市高速鉄道を建設したいと出願したが、長らく検討された後に東京市が反対したこともあり認められなかった。

 当時の交通機関の技術革新は、現在の情報通信産業と同じように日進月歩だった。電車が発明されたのが1881年で、20世紀初頭にかけて世界中に広まった。

 確かにロンドンやニューヨーク、パリといった一部の世界的都市では地下鉄の建設が進んでいたが、まだ極東の新興国の首都にすぎなかった東京では1903年に路面電車が開業し、1911年に東京市が買収し市営化したばかりであり、地下鉄の有用性は理解されつつも、まだ具体的な検討には至っていなかったのである。

 この頃もうひとつ動いていたプロジェクトが国有鉄道の都心乗り入れだ。具体的には中央線、山手線、京浜線(現在の京浜東北線東京以南)を東京駅まで延伸する構想だ。結果的に山手線が環状化するのは関東大震災後の1925年まで待たねばならないが、これらのネットワークが完成すれば事足りるという議論もあった。

 早川も地下鉄ありきで研究していたわけではなく、さまざまな都市で建設が進んでいた地下鉄道と高架鉄道を比較検討し、都市の景観を汚し、騒音をまきちらす高架鉄道ではなく、地下鉄道こそが世界的スタンダードであるとして、地下鉄を選んだのである。