石橋湛山が読んだ
早川徳次への弔辞

 一方、早川には「誰もが不可能だと考えた」地下鉄建設を実現したというエピソードがある。だが、上記の通り東京にも既に地下鉄構想はあった。なかったのは技術的な裏付けである。実際、早川が路線を出願したころの講演録や論文を読むと、物理的に地下鉄建設が可能か不可能かという議論はしていない。

 埋め立て地である東京都心の地盤は悪いので、地質のよい地下深くにトンネルを建設しなければならない、あるいは地下水位が高いので水を防ぎながら建設するシールドトンネルで工事する必要がある。どちらも技術的難易度が高く、莫大な工事費が必要になるため、建設できたとしても経済的に成り立たない、というのが懐疑派の主張なのである。

 これを覆すために、技術者ではない早川が示したのが日本橋の基礎部の地質データと、まだ舗装されていなかった道路に散水するために、市内各所に掘られていた井戸の水位データであった。

 もちろんお金をかけて試掘調査を行い、より直接的な証拠を示すこともできたかもしれないが、渡航で全財産を使い果たした早川にそのような余裕はなかった。それでも直感と執念で既存のデータにたどり着き、説得に足りる資料を作り上げたのは彼の功績である。

 先述の通り、日本において早川以前にも「地下鉄」という概念は存在した。海外の実例や技術も紹介されてきた。だが、それが事業として成り立つということを具体的に示した初めての人間が早川徳次であった、ということである。

 旧制中学の同窓で、後に内閣総理大臣となる石橋湛山は、早川の葬儀で弔辞を読んでいる。

「早川徳次なくとも誰かがやがて地下鉄を敷いたであろう。しかし、それはコロンブス出でずとも誰かがやがて米大陸を発見したであろうと言うに等しい。米大陸の存する限りコロンブスの名は亡びざるに等しく、早川徳次の名は我が国に地下鉄の走る限り残るであろう」

 早川が地下鉄の父と呼ばれるのは、彼が地下鉄を生み出した親だからである。彼の子は営団、都営、メトロという養父を経て成長し、今に受け継がれている。やはり早川は、地下鉄の父なのである。