異常な動物愛護令を出した5代目・綱吉

 かの有名な生類憐みの令について述べていこう。この法律は、二十年以上にわたって百回以上発布された動物愛護令の総称である。

 初めての法令は、「将軍が道を通過するさい、犬や猫が路傍に出ていてもかまわない」という貞享二年(一六八五)のものだとされる(諸説あり)。ちょうど堀田正俊が刺殺された翌年で、綱吉が自ら政治に関与しようとしていたときである。

 以後、法令の内容は年々厳しいものになっていった。

「病気になった生類を捨てるな・飼い犬の数や毛色をきちんと登録せよ」といった内容はまだよいとして、生類すべての殺生を禁じたり、「飼っている金魚の数を申告せよ・亀は飼うな・虫は売買するな」というのは、さすがに異常だ。

 法に触れて処罰されるのを恐れた人びとは、飼い犬を密かに放ち、街中の犬とのかかわりを避けた。また綱吉は、庶民に広まっていた犬食の風習を厳禁した。鷹狩りも禁じたので、幕府は飼育していた鷹を山野に放ったが、これを諸大名や武士がまねた。これにより、鷹のエサに用いられる犬肉の需要がなくなってしまった。この結果、ますます犬の数が急増し、エサをもらえぬ野犬が各地で捨て子などを食い殺す事件が多発する。

 すると綱吉は、大きな犬屋敷をつくって、そこに江戸市中の犬を収容しはじめたのである。はじめに喜多見村、次いで四谷(約一万九千坪)や大久保(約二万三千坪)に広大な犬屋敷をつくっていった。しかも、犬をカゴに乗せて四谷や大久保まで運んだというから馬鹿げている。中野の犬屋敷は最大時には広さが約三十万坪にもおよび、常時十万~二十万頭の犬を飼育していたそうだ。

 施設には役人だけでなく犬医者(獣医)が常駐していた。犬屋敷のエサ代も馬鹿にならなかった。中野の犬屋敷では年間約十万両かかったというが、一両七万円だとすると七十億円もの出費になる。しかも、その負担はすべて江戸の住人の税でまかなったというから、江戸っ子はたまったものではない。

 異常なのは、生類を愛護するあまり、法令に触れた人びとを厳罰に処したことであった。人間より犬猫を大切にするなど本末転倒であり、世界史的にも類を見ない法令だと思う。