このままでは死んでしまうと心配した宗哲は、将軍・秀忠に事情を話し、秀忠から家康を説得してもらおうとした。これを知った家康は「お前の薬などいらぬわ!もう二度と俺の前に現れんでよい」と怒って、宗哲を信濃国諏訪の高島へと流罪にしてしまったのである。なんとも可哀想な侍医だ。

常軌を逸した家康への愛を持つ、3代将軍・家光

 家光は、朝夕二回ずつ正装して祖父・家康の霊をおがみ、「私が生きるも死ぬもあなた次第。私とあなたは一体で、私はあなたの分身です」という書きつけや家康への感謝の言葉をお守り袋に入れて持ち歩いていた。父の秀忠に冷遇された分、祖父・家康への敬愛の念が強くなったのだろう。

 家光は秀忠が建てた江戸城の天守を撤去し、新たに天守を建てたが、同じように秀忠の日光東照宮(家康の霊廟)も取り除き、なんと延人数四百五十万人と巨費を投じて壮麗な宮殿に建てかえたのだ。そして以後、およそ二年に一度の割合で江戸から日光まで参拝(日光社参)している。これは将軍が神君家康の祀られている日光東照宮に参詣する儀式である。秀忠は私的な少人数の参拝だったが、家光のときは譜代大名など数万人が供奉して大々的な参拝をおこなった。もちろん天下に将軍の威勢と軍事力をアピールすることがねらいだったわけだが、それを割り引いても家光の家康に対する入れ込みようはすごい。

 こんな話もある。長患いをした寛永十四年(一六三七)、家光は「頼むは大権現の神徳だけであるとし、煩いがよくなるようであればよい夢を、そうでなければ悪い夢をと念じていたところ、夢中で家光が日光へ社参し、束帯装束を着て、神前格子のほとりで、拝している夢を見た。すると病は本復した」(藤井讓治著『人物叢書 徳川家光』吉川弘文館)という。

 さらに、夢に現れた家康の姿を絵師の狩野探幽などに描かせ、居間などに飾っていたというのだ。現存する絵だけでも十数枚に及んでいる。ここまでくると、常軌を逸しているような気がする。そのうえ、歴代将軍の中で唯一、家光は家康の眠る日光に自分を葬るよう遺言しているのだ。こうして東照宮近くにつくられた家光の霊廟が大猷院である。