強い懸念を表明していた西側諸国も、最終的に軍事介入しなくて済むこととなり、安堵した。

 ただ、クリミアが新たな支配者の手に渡るのはこれが最後ではなさそうだ。

◇ユーゴスラビア

 この国家の成立期は、1918~41年、そして断絶して1945~92年だ。首都はベオグラード、最終的な人口は2300万人だった。「ユーゴスラビア人」としての意識の低さが、滅亡の原因とされる。

 ユーゴスラビアは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を有する1つの国家」と表現されるほど複雑だ。かろうじて同国が存続できたのは、ヨシップ・ブロズ・チトーという指導者の存在だった。

 ユーゴスラビアは1918年に出現した。最初の国名は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」だった。緩衝国の立場を抜け出したのもつかの間、第二次世界大戦のさなかに崩壊した。

 その後、クロアチアは枢軸国との関係を深めようと腐心した。クロアチア人はセルビア人虐殺に熱を入れ、セルビアのナショナリスト組織チェトニックは「蛮行には蛮行を」とどくろマークの旗を掲げて報復に燃えた。

 その泥沼の争いに、枢軸国支配に抵抗した共産主義主体の勢力「パルチザン」が第3勢力として加わり、最終的に頂点に立った。

 その指導者だったチトーは純金の食器で食事をするのが好きな共産主義者だった。15人兄弟の7番目の子として生まれ、巧みな「仲裁力」を持ち合わせていた。スターリンに対しても平気で異議を唱えていたという。

 ソ連とも資本主義とも違う「第3の道」に舵を切ったユーゴスラビアは、経済成長や識字率急上昇を謳歌した。一方で莫大な損失も抱えていた。元首チトーの求心力だけが頼みの綱だった。

 1980年にチトーが死去すると、国の停滞が続き、各地で分離独立の気運が高まった。国民の支持を集められない共産党をしり目に、クロアチアでは民族主義者が権力を握った。連邦をまとめると自負していたセルビアは、残忍なミロシェヴィッチの支配下にあり、多民族のボスニアヘルツェゴビナが1992年に独立を宣言すると、地域全体が戦火に見舞われた。