日露戦争における日本は巨象が薄氷を渡るかのように「軍事的勝利」を重ね、それをロシアの戦争指導部や国際世論を動かし、「戦争における勝利」を獲得した。

 太平洋戦争時の日本は緒戦における戦術レベルの軍事的勝利を獲得したが、それを戦争における勝利――好ましい政治的な成果――に転換することができなかった。緒戦の軍事的勝利は、さらなる占領地域の拡大という別の軍事的勝利のために投じられたことで消耗戦に陥り、軍事的勝利も戦争における勝利も失った。

 一方、日中戦争を中国の視点から見れば、第二次長沙作戦――終戦時の陸軍大臣の阿南惟幾が勝手に無謀な攻勢作戦を発動し、待ち伏せする中国軍相手に包囲され大損害を出した挙句、部下に責任を押し付け撤退した――といったいくつかの例外を除けば、国民党軍は日本軍に軍事的には連戦連敗したが、援蒋ルートに米国の支援を取り付けたことが最終的には日米開戦に結びつき、「軍事的勝利」が少ないままに「戦争における勝利」を獲得した。

 このように、戦争に勝つとは一筋縄でいかない営為なのだ。

ロシアとウクライナが目指す「勝利」の違い

 この視点から現在のウクライナ・ロシア戦争を眺めてみると、断片的な情報と現時点での状況ではあるが、ロシアは戦術レベルの勝利に向かって力押しを続けている。キーウ(キエフ)攻略に失敗した後は、ウクライナ東部の領土的支配を目指しつつ、ウクライナ市街地への無差別攻撃を行っているが、これが作戦レベル、特に戦略レベルの勝利にどうつながるか、見えてこない。

 キーウ攻略を含めた際は、全打者をホームラン打者にして多方面から進撃したが、全く連携もなく失敗。今度は東部にホームラン打者を集中して目の前の試合でホームランによる得点が量産されれば勝てると思っているかのようだ。

 一方、ウクライナ側は戦争における勝利を目指しているようにみえる。まるで、かつての野村ID野球のように小技・大技・番外戦術を駆使して、日本シリーズ優勝を目指しているようだ。

 つまり、ロシア側は政治的な勝利の可能性を浪費――情け容赦ない都市部への攻撃と兵糧攻め、過去に比して雑としか評価しようのない情報戦と軍事侵攻、国際的な孤立をいとわぬ力押し――してでも、目前の軍事的勝利に固執しているように思える。