そもそもなぜ「遅れを取り戻す」
必要があるのかを考える

センゲ氏

 私たちはなぜテクノロジーをより高度にしたいのか? 私たちの生活はどう向上するのか? それによってお互いや自然界との関係はより強いものになるのか? 私たちにとって本当に大切なものは何なのか?

「遅れを取り戻さなければならない」という意識は、「我々を駆り立てる恐怖心が必要だ」「恐怖を与えるリーダーが必要だ」と、恐怖のリーダーシップを求めているかのようです。

 日本はとても興味深い国です。この質問をもらい、とても皮肉なものだと思いました。

 というのも、アジアの国々は非常に「文脈」(コンテクスト)を重視する文化を持っています。日本はとりわけ顕著で、「空気を読む」というフレーズがありますね。「あなたと私」という個人同士だけでなく、自分の家族、自分たちのコミュニティ、自分たちの環境といった、コンテクストを重視します。日本文化の深遠な知識の多くは、こうしたコンテクストに関わるものです。

 それは言語にも表れています。東アジアの言語は一般的に、意味があいまいなものが多いですよね。名詞だけで語るのではなく、文や記号、発話があり、意味は「文脈」の中にこそ表れる。名詞ベースの「モノ」を重視する文化である欧米とは違います。「このモノは、このモノである」という話法ではないんですね。

 日本のデジタル化が緩慢である理由のひとつは、日本文化が本来持っている、こうした文脈依存的な志向にあるのかもしれません。しかしそれは良い面でもあります。

 誤解がないように申し上げますが、「問題がない」と言っているわけではありません。私も日本人なら、きっと同じ疑問を持っていたでしょう。

 ただ、「遅れているから追いつこう」ではなく、「自分たちがもっとも大切にしている文化や価値観をどのように守っていくか?」「そのためにテクノロジーをどう使いこなすか?」「自分たちにとって、自分たちなりのより良い方法とは何か?」。これこそが重要であり、世界中どこにでも通じる「問い」なのです。

 中国はもう少し複雑で、国の一部が起業家精神にあふれ、先を競う若いテクノロジー業界のリーダーがたくさんいて、この20〜30年で、すべてが変わりました。そして、皆、同じ問題を抱えています。どんどん西洋の文化や価値観に取り込まれていくのです。

 この20~30年、中国は「中国らしさが失われるのではないか、西洋版の中国人になりつつあるのではないか」という深い不安を抱えてきました。上海や北京ではそれほどではないかもしれませんが、習近平国家主席が特に中国西部で人気が高いのは、彼が西洋に立ち向かっているとみられているからです。

 ともかく、「後れを取っている」というのは、表面的な指標を見た場合の話です。「自分たちが大切にしている文化を守るために、どのようにテクノロジーを使いこなすべきか?」。これが、見過ごされている問いなのです。