慶應義塾はなぜ財閥や財界に強いのか。歴史をひもとくと、慶應の創設者である福澤諭吉の時代から、慶應と財閥は人脈で結ばれていた。「週刊ダイヤモンド」2016年5月28日号では、三菱と三井の二大財閥を舞台に慶應王国が築かれた軌跡を追っている。特集『最強学閥「慶應三田会」 人脈・金・序列』(全17回)の#12では、当時の記事を再掲し、二大財閥の慶應人脈をたどる。(ダイヤモンド編集部)
福澤と岩崎弥太郎の盟友関係
塾生の”リクルーター”が登場
「近年日本の商売社会に大事業を成し、絶後はイザ知らず空前の名声をとどろかして国中に争ふ者なきは、三菱会社長故岩崎弥太郎氏なるべし」
1893年4月、福澤諭吉創刊の日刊紙「時事新報」に掲載された論説の一節だ。
三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎は“政商”として世間の非難を浴びることも多かったが、福澤は弥太郎を「空前の名声」を博した実業家と絶賛したのである。
後に福澤の著作『実業論』としてまとめられる論説の記述からもうかがえるように、2人は互いに一目置き合う盟友関係にあった。
弥太郎は福澤のベストセラー『西洋事情』を明治維新前に熟読しているし、ビジネスが軌道に乗った後も福澤のアドバイスを聞き入れている。
実は1日違い生まれの同い年で地方の下級武家出身、という共通点も多い2人の蜜月は、三菱という現在に続く巨大企業グループの今を語る上でも重要な意味を持つ。
弥太郎は土佐藩に生まれ、大阪で藩の事業を吸収して海運業を立ち上げた。台湾出兵(74年)や西南戦争(77年)で政府の軍需輸送を独占し、三菱は急成長を遂げることになるが、このときに直面したのが人材不足という壁だった。
弥太郎は早い時期から高等教育を受けた人材を求めたが、“番頭でっち”の文化が色濃く残る当時はまだ、学卒者の多くは官職を志向していた。
ここでキーマンになったのが、弥太郎の母方のいとこに当たる豊川良平だ。豊川は弥太郎より17歳年下で、三菱の2代目総帥となる弥太郎の弟、弥之助の1歳年下。早くに両親を亡くし、岩崎家で弥太郎や弥之助と兄弟同様に育った人物だ。
三菱の東京進出を機に豊川も上京し、入学したのが慶應義塾だ。卒業後も定職に就かず、経済誌の創刊や学校運営に携わるなど自由な言論生活を送っていたようだが、この時代、後に歴史家から「一生を通じた無形の大事業」と称される仕事を豊川はやっている。
それが、弥太郎に優秀な人材を紹介する、いわばリクルーターとしてのミッションだ。豊川が推す人材の多くが慶應の出身者だった。