「黒い空気」とは何か
【定義その1】
たとえ変化・変革した方が効率的であっても、あえて非効率的な現状を維持する方が合理的だと指導者が判断して組織を指導するとき、組織は不条理な「黒い空気」に支配され、合理的に失敗する。
【定義その2】
たとえ変化・変革した方が倫理的に正しくても、あえて不正な現状を維持隠ぺいした方が合理的だと指導者が判断して組織を指導するとき、組織は不条理な「黒い空気」に支配され、合理的に失敗する。
第一回出撃命令と第二回攻撃命令
1944年4月に、サイパンが米軍に占領されると、サイパン島から出撃する米国の戦略爆撃機B29によって、大阪や東京への空襲が直接可能になった。
これに対抗するために、日本軍は同年11月2日にサイパン島を空から執拗に攻撃して、爆撃機B29と飛行場を破壊しようとした。しかし、日本陸海軍の航空爆撃による米軍飛行場への攻撃はある程度成功したものの、本来、航空機による爆撃は的に命中させることが非常に難しく、飛行場の爆撃機B29を十分破壊できなかった。
そこで、日本陸軍はサイパン島に空挺部隊で編成した特殊部隊を送り込み、地上から爆撃機B29を直接爆破する計画を立てた。このとき、奥山道郎大尉を空挺隊の指揮官とする特殊部隊が編成され、その部隊は「神兵皇隊」と名づけられた。
日本軍は、当時、陸軍中野学校で諜報や防諜などの教育を受けた諜報員を南方の島々に配置していた。米軍の侵攻によって島々が占領された後も諜報員を同地に留まらせ、敵情などの情報収集をさせていた。彼らは、「残置諜報員」と呼ばれていた。
当時、サイパン島にも残置諜報員が配置されていた。ところが、サイパン守備隊が玉砕してからは、その消息が途絶えていた。大本営は、爆撃機B29の出撃状況や日本軍の空襲による効果など、サイパン島からの情報を必要としており、それゆえ空挺隊の突入の際に、陸軍中野学校卒の諜報員もサイパン島に潜り込ませることを計画していた。
玉砕覚悟の空挺隊員やパイロットとは違い、中野学校卒の諜報員は着陸後離脱してサイパン島内に潜伏し、残置諜報員として遊撃戦を展開することを任務としていた。つまり、「生き残ること」が彼らの目的であった。それゆえ、彼等は「死ぬこと」を目的とする空挺隊員に悟られぬように、苦労して作戦計画を立てていたのである。