ところが空港に向かう道路がすでに警察によって封鎖されており、陸自の車両ですら近づけず(大小田八尋『ミグ25事件の真相』)、「警察の警備が厳しくて、中に入れてもらえない」と報告される有様であった。本事件は明らかに軍事・外交案件であり、一刻も早くベレンコとミグの調査を行う必要があったが、警察は出入国管理令違反でベレンコの聞き取りを行って刑事事件として処理していたため、陸自の介入を許可しなかったのである。航空自衛隊のほうは幕僚長の角田義隆自らが調査の決断を下し、航空幕僚監部防衛部副部長の松井泰夫を長とする11名もの調査団を結成して、翌日早朝に現地に派遣している。

 一方、東京の官邸では警察庁、法務省、運輸省、外務省、防衛庁の間で事件の主導権に関する綱引きが行われていたが、やはり刑事事件として処理したい三木武夫総理の判断で防衛庁・自衛隊は頭を押さえつけられた格好となった。当時は自民党内では倒閣運動、いわゆる「三木おろし」の政争の最中で、三木はベレンコどころではなかったようである。

 その結果、7日午前零時にミグ25の機体管理権は警察から検察に移され、函館地検が機体の検証を行うという有様であった。さらに大蔵省の税関は、ミグを密輸品として扱うことも検討しており、現場は相当混乱していたようである。空自の調査団も当初函館空港への立ち入りを許可されなかったが、空自側は抗議を行い、半日後になってようやく函館地検の指揮権下という条件で調査が認められた。

 その後、9日にベレンコは民間機で米国へ亡命を果たし、ミグのほうは分解され、茨城県の航空自衛隊基地に輸送されて徹底的に調べられた。本件は基本的には領空侵犯事件であり、ベレンコは戦闘員である以上、本来は捕虜に近い形で自衛隊が尋問を行うのが筋である。実際、亡命先の米国でベレンコを尋問したのはCIAと国防情報局(DIA)だった。

 このように、ベレンコ事件は警察が国内事件として処理していた。日本における対外情報機関の空白と、軍事情報の領域を警察がカバーするという特殊性を際立たせるものとなった。