【実話】ソ連軍戦闘機が函館空港に強制着陸&発砲、日本は縦割り主義で大失態写真はイメージです Photo:PIXTA

庵野秀明監督による映画「シン・ゴジラ」では、ゴジラという危機の前に大臣や省庁による縦割り主義が立ちはだかり、対応が後手に回る様が描かれている。ところが、実はかつての日本では、ソビエト連邦の戦闘機が日本の空港に着陸し発砲するという緊急事態に際し、映画さながらの縦割りが主義が露見していたのだ。※本稿は、小谷 賢『日本インテリジェンス史―旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(中公新書)の一部を抜粋・編集したものです。

ミグ戦闘機が函館空港に着陸し発砲も
警察、自衛隊、省庁の縄張り争い勃発

 1976年9月6日13時50分頃、ソ連防空軍のヴィクトル・ベレンコ中尉が操縦するミグ25戦闘機が函館空港に強制着陸するという事件が生じた。

 ミグは日本の防空レーダーが一旦は捉え、航空自衛隊のF-4ファントムがスクランブル発進したものの、これを見失っていた。この事件で、地上防空レーダーでは低空を飛ぶ航空機を探知することができず、また航空自衛隊のファントムは機体の下を飛ぶ航空機を見下ろすルックダウン能力がないことが表出する。この時、陸幕の別室も極東ソ連軍の通信量増大を感知しており、何らかの事態が生じていることは把握していたが、詳細はまだ不明だった。

 後に、ベレンコは最初から米国に亡命する目的で航空自衛隊千歳基地を目指し、燃料不足のために急遽函館空港に目的地を変更したことが判明する。

 ベレンコが亡命した理由はイデオロギー的なものではなく、彼の不倫で妻との関係が悪化し、妻の父である党幹部に睨(にら)まれていたからだという(名越健郎『秘密資金の戦後政党史』)。1976年9月10日には夫婦の不仲を旨とするベレンコの妻の手紙を日本の各紙が報じ、ベレンコ中尉が個人的な理由で西側への亡命を果たしたとされたが、こちらはむしろソ連による偽情報と見なされ、当時はベレンコが自由を求めて亡命したものと解釈されていた(「妻と不仲離婚寸前」『読売新聞』1976年9月10日)。

 千歳であれば、航空自衛隊がすぐにミグとベレンコを確保できたので、その後の展開は穏やかなものだっただろう。しかし民間航空機が主に使用する函館空港に強行着陸した上、ベレンコが拳銃による威嚇射撃を行ったため、まず初期対応は北海道警察の手に委ねられることになる。確かに所掌事務からすれば航空自衛隊の任務は領空侵犯に対する警告行為までで、すでに日本国内に着陸したミグについては警察の管轄になる。だが初動は錯綜し、警察は民間空港での発砲事件は警察の管轄だと主張し、法務省は不法入国ということで自分たちの管轄だと主張し、外務省や税関を抱える大蔵省、運輸省や通産省までが事件への関与を主張し出したのである。

 これに対する道警の対応は迅速で、即座に方面本部機動隊を派遣し、函館空港を閉鎖。この時、最寄りの陸上自衛隊函館駐屯地は第二科(情報)の辰巳和昌ら他2名を私服姿で空港に送り、さらに札幌の陸上自衛隊北部方面総監は、第二部に所属しロシア語に精通している佐藤守男を現地に送って、ベレンコへの聞き取りとミグに関する情報収集を行うことを命じている。