「日本空爆目標データ」。それは、322ページにも及ぶ日本への空爆計画の資料だった。作成されたのは、1943年3月。中を開くと、空爆の標的となりうる日本の軍事拠点や産業施設がズラリと列挙されている。日本の空爆目標のリストだった。

 その数は、実に2000カ所以上にのぼった。東京の中島飛行機や三菱航空機などの飛行機工場、横須賀や呉の海軍基地や造船所など主要な軍事拠点はもちろんのこと、兵器製造に必要な材料を生産する鉄鋼業や軍服生産に不可欠な紡績工場、電力や石油、自動車などの生産関連施設が並ぶ。さらにリストを細かく見ていくと、エレベーター製造工場やタイプライター製作所などの小さな町工場、一般市民の生活を支える給水所や食料工場までもがターゲットにされている。

INCENDIARY(焼夷弾)と
ハッキリ書かれた資料発見

 アーノルドは、この資料の作成を1943年2月に命じていた。担当した陸軍航空軍司令部は、軍事アナリストや経済学者など様々な分野の専門家を交え、日本の攻撃目標の情報をつぶさに調べ上げ、「日本空爆目標データ」としてまとめた。その内容は、まさにハンセルが練り上げていた「精密爆撃」を実行するためのデータのようだった。やはりアーノルドら航空軍は、精密爆撃を成功させようと、念入りな準備を進めていたのだろうか。さらに年代をたどって、計画の変遷を追うことにする。再び、1943年の資料ボックスを探っていく。新たな作戦資料は、1943年10月のボックスから見つかった。「日本空爆目標データ」の作成から半年後である。緻密な精密爆撃の計画だろうか。だが、その表紙を見て、言葉を失った。

「日本焼夷弾空爆データ」。INCENDIARY(焼夷弾)とハッキリ書かれていたのだ。なんと、アーノルドは精密爆撃を掲げながらも、その一方で焼夷弾による空爆作戦の準備を進めていたのだ。しかも、1943年10月に作成されていた。東京大空襲が実行される1945年3月より、1年半も前のことである。

 レポートの中身を見てみる。まず冒頭に、攻撃目標として20都市が列挙されている。東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、広島、呉、新潟、八幡、福岡、長崎、佐世保、小倉、大村、門司、久留米、延岡。それらの都市は表として一覧できるようになっており、各都市の人口、建物の密集度合いに応じて算出した焼き払うために必要な焼夷弾の爆弾量、それを投下した場合の被害予測が分析されている。そして、こう述べている。

「20都市の人口総計の71%、1200万人の住宅を焼き払うことができる。都市としての基本的な機能を失わせて、あらゆる面に甚大な影響を与えることができる」

 さらに、重要目標とされていた10都市、東京、川崎、横浜、大阪、神戸、名古屋、広島、八幡、福岡、長崎に関しては、焼夷弾爆撃が有効な地域を記した詳細な地図が添えられていた。地図は、赤、ピンク、白の3色に色分けされている。赤色で塗られた地域は「最も焼夷弾爆撃が有効な地域」、ピンクは「有効な地域」、白は「有効とは言えない地域」。色が薄い地域ほど、効果は薄れていくという分類だった。

 地図が作られたこれら10都市はすべて、のちに焼夷弾爆撃によって焼かれている。中でも驚いたのは、東京の地図だった。真っ赤に塗られた地域を見ると、東京大空襲で焼き払われた地域とほぼ一致していたのだ。レポートは、焼夷弾の有効性を強く主張している。

「東京では、工場、倉庫、住宅などに用いられる建築資材の90%以上が木材であり、とても燃えやすい。木造建築が密集しているため、焼夷弾による延焼率が高く、非常に有効である。それは、他の都市も同様である。火災によって燃焼しやすい日本の都市は、焼夷弾爆撃の目標として最適である」

 ルメイに命じられた焼夷弾爆撃は、1943年の時点で、すでに準備されていた。しかも、被害予測や爆撃効果まで詳細に分析し、日本に対して有効だと結論づけていたのだ。表向きは精密爆撃を掲げたアーノルドの、全く別の顔が浮かび上がってきた。