「インフラを分散させない街」では居住の自由が制限される
「そんなメチャクチャな話が許されるわけがないだろ」と怒る人も多いだろうが、これは何も筆者だけが言っているわけではなく、古くは1990年代から人口減少社会の特効薬として唱えられてきた「コンパクトシティ」という考え方だ。
人が減るので、インフラを担う人も減る。この限られた人的資源でインフラを維持するには、「移動」で時間と労働力を浪費しないように、住民になるべく集まって生活してもらう。こういう考え方で、自治体が主導して「コンパクトシティ」の計画を進めた。
しかし、ほとんどうまくいっていない。構想としてはどれも立派で、人口減少に対応した「住民が集中して暮らす」という都市計画が立案されるが、現実はその通りになっていない。
なぜかというと、人には「居住の自由」があるからだ。
「自治体がこれからの日本のためにはコンパクトシティが必要なので、どうぞ皆さんこのエリアに住んでください」と言ったところで、皆さんは素直に従うだろうか。
「いや、オレは田舎暮らしがしたい」とか「郊外にいい住宅分譲地ができたから、そっちでマイホームを買いたい」となるのが普通ではないか。つまり、「コンパクトシティ」という人口減少社会の現実的な解決策は、多くの人が従わない「絵に描いた餅」なのだ。
ただ、先ほども申しあげたように今後、日本で人口が増えていくということはあり得ない。「移民」も難しい。となると、ここしか現実的な解決策はない。そうなると、政府はどうするかというと「居住の自由」を制限していくのではないか。
ここに住めるのはこの人だけ、高齢者はここのエリアで暮らすようにと「推奨」という形で、徐々に規制をしていくのだ。
ばかばかしいと思うだろうが、我々はこの数年、法律でもないマスク着用を守っているではないか。「大切な人の命を守りましょう」「医療・介護従事者の皆さんを支えよう」という国の号令によって、みんな喜んで自分の「自由」を制限している。統制もしていないのに、こんなに素直に国家統制に従う国民というのは、世界を見渡してもそういない。
あと20年もしたら、我々は「異次元の人口減少対策」のために、自分の好きな場所で生活をすることを我慢するのが当たり前になっているのかもしれない。
(ノンフィクションライター 窪田順生)