「魔都」というネーミングに対する批判もある
兪彭年氏は、メディアに発表した文章の中で、クルーズ船の船名「愛達·魔都号(アドラ・マジックシティー)」に使われた「魔都」という言葉に対して怒っていた。
「日中関係の歴史を知る人にとって、“魔都”といえば、日本の官能小説家・村松梢風が旧上海を旅して書いた『魔都』という本を思い出すだろう。(中略)彼は、東京で遊郭に通い、女遊びをした経験を書いて有名になったが、次第に新しいものが書けなくなり、内容が枯渇してきたと感じた。 そこで1923年、彼は新たな刺激を求めて上海に駆けつけ、執筆活動を行った。
当時の上海は半植民地社会で、外国人は租界に住み、そこで優位に立ち、治外法権と自由を享受していた。租界は繁栄し、多くのダンスホールや売春宿があり、自由に開放されており、社会の底辺にいる中国人は重労働をさせられ、虐げられ、悲惨な人生を送っていた。 村松梢風は、昔の上海を見て驚き、その混在ぶりを高く評価した。 “魔都”という言葉は、かつての半植民地時代の上海を指す蔑称(べっしょう)であり、一般的な日本人には使われない言葉だった」
実は、兪氏は1970年代、上海外国語大学で私に日本語を教えてくださったこともある恩師で、1983年、上海外事弁公室に異動し、同室の副主任を務めた日本通とも言える学者型官僚でもある。その批判を読んだとき、一理あると直感し、さすが日本通だと感心した。1980年代、私が外国文学者辞典の編纂(へんさん)に関わったとき、村松梢風を選ぶかどうか、だいぶ心が揺れていた当時のことも思い出し、恩師を援護射撃しようと思った。
しかし、1924年に村松梢風は上海を見つめながら『魔都』を書いたとき、作家としての視線にはそれなりの真面目さがあったとも思う。同書の序文(『自序』)には、下記のような内容が書かれている。あえて旧仮名遣いと旧漢字のまま、一部引用したい。
こうした作家の気持ちと視線が「魔都」という言葉に、約1世紀の歳月の砂塵(さじん)に耐えられる魔力を持たせたのかもしれない。
おそらく上海市文化観光局も中船クルーズも、そこまでは考えずにネーミングしたのだろう。事前に日本通の専門家たちにも意見を求めれば、もうすこしそのネーミングが推敲(すいこう)できたのではないか。確かに、それぞれの時代にはその時代にしか通用できない言葉があると思う。
(作家・ジャーナリスト 莫 邦富)