ルールを守れないものは「非国民」、武器はSNSに変わり…

 近代化した日本の教育のベースとなった「教育勅語」でも、実は「規範意識の育成」は大きな柱となっている。と言っても、時代背景が違うので当時はこれを「遵法」と呼んだ。「法律や規則を守り社会の秩序に従おう」という意味だ。

 戦前・戦中の子どもは「教育勅語」を暗唱させられて、この「遵法」を骨の髄まで叩き込まれた。すると、どういう大人に成長するのかというと、国が定めた法律やルールを守ることが「正義」であり、それができない者は「非国民」として怒りや憎悪を抱く人になってしまう。「規範意識」が膨張して、「社会秩序を乱す悪」を制裁するための誹謗中傷や暴力は許される、という感じで、「正義の暴走」が始まるのだ。

 例えば、満州事変直後の1931年9月20日、東京・麻布で2人の男が「若し戦時召集があっても応ずるな」とビラを巻いて演説をした。戦後の映画やテレビではこういう「非国民」を処罰するのは、警察や憲兵として描かれるが、現実は違う。

「付近の住民は時節柄とて憤慨し二三十名が棍棒や薪を持って『非国民を殴り殺せ』と追跡したが何れへか逃走した」(読売新聞1931年9月21日)

 そういう「正義の私的制裁」が日本中であふれかえった。

 規範意識が強くなりすぎた “正義の日本人”は、「ルールに従わない人」「みんなに迷惑をかける人」に対しては、これほど冷酷・残酷になれるものなのだ。

 このような「非国民へのリンチ」を生んだ「遵法教育」は戦後GHQの監督下になると「規範意識の育成」という呼び方に変えられて、教育基本法や学校教育法に盛り込まれて現在に至る。見た目は“化粧”されているが、本質的なところでは同じ教育が続いているので当然、「非国民へのリンチ」も健在だ。しかし、さすがに今はこん棒で殴り殺すというわけにはいかない。そこで「武器」をSNSに変えて、「死ね」「消えろ」というナイフのように鋭い言葉で相手の「心」をメッタ刺しするようになった、というのが筆者の考えだ。