ただし、アサヒが「生ビール」の売り上げでトップに立ったのは1988年。それから6年以上経過した時点で、「No.1」と広告を打ったのには理由があった。

「アサヒとしてはこの時、大きな賭けに出たのです。狙いはキリンのミスマーケティングを誘うことでした。広告による情報戦略でした」(当時のアサヒ幹部)

 1994年のキリンのシェアは49.0%。対するアサヒは、26.0%。キリンはアサヒのほぼ倍であり、この年のトヨタと日産のシェア差より大きかった。

 ビール市場でナンバーワン・ブランドである「ラガー」の1994年販売実績は、1億5150万箱。ブランド2位の「スーパードライ」は1億2150万箱。差は縮まってはいたものの、まだ3000万箱、シェアにして5.2%を超える差があった。ラガーには中高年を中心に熱烈な固定ファンがいたのだった。

 そこで、アサヒが打った「No.1」広告だったが、“危険な賭け”でもあった。

 キリンが静観を決め込んだなら、大きな変動はなかったろう。もしも、キリンが「ラガー」をそのままに、同じ生ビールである「一番搾り」を前面に押し出してきたなら、アサヒは苦境に立たされてしまう。

「一番搾り」も「スーパードライ」も、缶の比率が高く、コンビニで人気があり、20代の若者や女性からの支持が強かった。ともに、「ラガー」から離れた人たちが飲んでいて、共通項が多かったのだ。

 現実には、アサヒの「生ビール売上No.1」広告を受け、キリン社内では営業部が「ラガーを生ビールにしなければ、もうどうにもならない」と強く主張した。営業部は、「ラガー」の販売量減少に歯止めをかけたかった。少なくとも、「ラガー」を生ビールにすれば、「スーパードライ」は「生ビール売上No.1」のままでいられないだろう。

 これに対し、マーケティング部が反対した。「ラガーには固定ファンがいる。生ビールにして味を変えれば固定ファンが離れていく。それにラガーはいまでもビールナンバーワンの座にある」と。マーケティング部は論点を資料にまとめ、全国支店長会議で配付して、商品戦略の変更を阻止しようとした。しかし、営業部門を止めることはできなかった。