1994年からキリン営業部は、「ラガー」を中心に売ろうとする「ラガーセンタリング運動」を展開していて、「『一番搾り』を前面に押し出す」という選択肢も発想も出てこなかった。

 何しろ、当時のキリン社員の大半は、「ラガー」によって、圧倒的首位という“良い思い”を長期間享受してきたのだ。「ラガー」は彼ら彼女らの魂そのものであり、「スーパードライ」はもちろん、自社の「一番搾り」でさえ、決して超えてはならない聖域だった。過去の成功体験から脱することのできない硬直した体質に危機感を抱いたのが前田仁だったが、1993年に子会社の洋酒メーカーに出向させられていた。

 かくして、キリンは1996年1月に主力商品「ラガー」を、熱処理ビールから生ビールに変えると発表。同年2月に生ビール化した「ラガー」だったが、徐々に勢いを失っていく。同年6月、単月の瞬間風速だったが、「ラガー」はついに「スーパードライ」に逆転を許してしまう。その後も、「スーパードライ」は勢いを増していった。

「アレはオウンゴールだった」(キリン幹部)と指摘される「ラガー」の生化は、戦後のビール商戦の分水嶺であったが、同時に熱処理しないビールが大半を占める日本独自のビール市場が形成されていくターニングポイントでもあった。

ビールに続き第2ラウンドは発泡酒
「キリン『淡麗』VS.アサヒ『本生』」

 1994年にサントリーが我が国初の発泡酒「ホップス」を発売。ラガーでの失速を挽回したいキリンも極秘裏に発泡酒参入を決めていたが、1997年に入っても発泡酒開発は、遅々として進んでいなかった。

 にもかかわらずキリンの佐藤安弘社長は、1997年9月の記者会見で「発泡酒を1998年早々に発売する」と発言してしまったのだ。“口を滑らせた”ようでもあった。

 何もできていないのに、発売まで4カ月しかない。商品をつくらなければ、消費者からも株主からも厳しく指弾されてしまう。

「もう、あの男しかいない」

 1997年9月末、子会社の洋酒会社に出向していた前田仁はキリン本社に突然、呼び戻される。佐藤社長は「一番搾り」という実績のある前田に、発泡酒開発を託したのだった。

 ちなみに、1986年から1997年までの12年間で、キリンは実に47もの新商品ビールを発売した。そのうち、現在でも販売しているのは4つ。最も売れたのが「一番搾り」、次に続くのが「ハートランド」であり、いずれも前田の作品だった。

 結局、キリン初となる発泡酒「淡麗」は1998年2月に発売され、大ヒットする。前田は大抜擢に、結果を出して応えたのだ。