ビール写真はイメージです Photo:PIXTA

シェア6割を占め、かつてビールの絶対王者だったキリン。「スーパードライ」で猛追するアサヒを、キリンは「一番搾り」「淡麗」で迎撃したが、結局、2001年に業界首位の座を明け渡す結果となった。両ビールメーカーは争いの裏側でどのような戦略を練っていたのか。本稿は、永井 隆『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

アサヒ「スーパードライ」を超えろ
キリンが大型新商品で勝負に出た

 キリンが1987年発売のアサヒのスーパードライに対抗する大型商品「一番搾り」の商品開発をスタートさせたのは1989年に入ってすぐだった。プロジェクトリーダーは、「ハートランド」を中心的に手掛けた前田仁。

「スーパードライ」に押されたキリンは89年、22年ぶりにシェア50%を割りこみ48.8%で着地していた(ちなみにアサヒは24.2%)。

 1988年から、前田は社内から商品開発を担うマーケッターとなりうる若手人材の発掘を始めていた。「一番搾り」開発では、工場の醸造技術者、若手営業マンが実質的に前田からスカウトされる。

 前田チームが開発した「一番搾り」は、仕込み工程で得られた糖化液(もろみ)をろ過したとき最初に得られる「第1麦汁」だけを使うビール。通常はもろみに再度お湯を加え「第2麦汁」を得て、両方を使う(キリンの場合、割合は第1が7、第2は3)。第1麦汁だけを使えば渋みのないピュアな味を実現できる。しかし、第2麦汁を使わない分、収量が減るため高コストとなってしまう。そのため、生産部門から猛烈な反対を受けるが、前田は半ば強引に造り上げていく。

「一番搾り」は、1990年3月22日に発売された。流通からの仮受注、さらには市場調査から、ヒットするのは確実と発売前に分かっていた。

「一番搾り」は大ヒットして、「スーパードライ」の勢いを止める。1990年末までに3562万箱が売れた。「一番搾り」のヒットが牽引して、キリンの1990年の販売数量は前年比10.5%増の2億5500万箱に拡大する。この年、2桁増を果たしたのはキリンだけだった。販売シェアは、0.9ポイント伸ばして49.7%とする。アサヒはシェアを0.3ポイント落として23.9%に。1986年以降では、初めてのシェアダウンだった。

アサヒが仕掛けた“危険な賭け”
慌てたキリンが「聖域」に大ナタ

 1995年春、アサヒが「生ビール売上No.1」というコピーが入った広告を打った。新聞、雑誌、テレビで、である。

 ビール業界における生ビールの比率は、「スーパードライ」が発売された1987年には拮抗するようになり、1994年には75%近くが生ビールになっていた。