5月の北海道江差町江差港マリーナと開陽丸博物館の風景写真はイメージです Photo:PIXTA

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、迫りくる新政府軍に江戸を無血開城した後も、東北諸藩は新政府軍との戦いを続けた。このとき彼らに、幕府が築き上げた巨大な海軍力が合流していたら、戦いの行方は大きく変わっていたはずだ。旧幕府海軍を掌握していた榎本武揚は、なぜ決断できなかったのか。※本稿は、金澤裕之『幕府海軍-ペリー来航から五稜郭まで』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。

「全ての軍艦を差し出せ」
突きつけられた降伏条件

 新政府軍が江戸へと迫るなか、さまざまなルートで寛典(寛大な処置)の嘆願が行われたが、いずれも新政府軍から和平の確約を得られなかった。勝海舟は和平不成立に備えて江戸市中に火を放つ算段をつけ、和戦両様の構えをとるが、徳川慶喜が派遣した山岡鉄太郎(号は鉄舟。精鋭隊頭)が、慶応4年(1868)3月9日に東征大総督府参謀西郷吉之助(隆盛。薩摩藩士)との会談に成功する。

 西郷から山岡へ示された、徳川家の新政府への降伏条件は次の五条であった。

一、江戸城の明け渡し
一、城中の兵の向島退去
一、全ての兵器の引き渡し
一、全ての軍艦の引き渡し
一、徳川慶喜の岡山藩への御預

 山岡は徳川慶喜の岡山藩御預以外すべての項目を受け入れ、事態は戦争回避へ向け大きく前進する。これを受けて3月13日には高輪の薩摩藩下屋敷で、14日には田町の同藩蔵屋敷で勝・山岡と西郷の会談が行われた。徳川家軍事取扱の勝と西郷の会談は交渉の節目となる事実上の両軍トップ会談となった。この会談で江戸城の新政府軍への明け渡し、徳川慶喜の水戸での謹慎などが合意され、15日に予定されていた江戸総攻撃は中止される。

 その後も条件の細部について交渉が続けられ、4月4日に正式に通告された降伏条件では、軍艦引き渡しに関していったん全ての軍艦を差し出し、徳川家へ新たに与えられる予定の所領に相応した分をあらためて差し戻すことになっていた。

旧幕府海軍は「榎本艦隊」に変容し
8隻の軍艦で品川沖を脱走

 この軍艦引き渡しに同意しなかったのが海軍副総裁の榎本である。

 海軍総裁の矢田堀鴻は主家の恭順方針と榎本たち強硬派との板挟みに懊悩したものか、城中にも浜御殿の海軍所にも姿を見せなくなっていた。海軍総裁が消えたこの状況で誰が旧幕府海軍をまとめるのか。海軍で人望のない勝が掌握するのは望むべくもない。旧幕府海軍は本来の指揮系統を離れ、榎本個人に従う「榎本艦隊」へと変容しつつあった。

 榎本が艦船引き渡しを拒んでいる間にも状況は変わりつづけていた。慶応4年(1868)5月15日には旧幕臣有志を中心に結成され上野の寛永寺に拠っていた彰義隊が新政府軍と交戦し、一日で壊滅している。24日には徳川家の処分が決定し、御三卿田安家から宗家を継承していた徳川亀之助(家達)が駿河を中心に70万石を与えられて新たに駿河府中藩を立藩した。家達このとき6歳。13代将軍家定、14代将軍家茂の又従弟にあたり、家茂が死に臨んで後継者に指名した少年である。このときは困難な情勢で将軍職を継承するには幼少に過ぎると見送られたが、徳川家が政権を去った今となっては宗家を継承するのに支障はなかった。