榎本は8月9日に家達が駿河へ向けて東京(7月17日に江戸から改称)を出発したのを見届けると、8月19日の夜半に麾下の艦船を率いて品川沖を脱走、奥羽越列藩同盟の盟主となっていた仙台藩へ向かった。榎本が率いていたのは、軍艦「開陽」「蟠龍」「回天」「千代田形」、蒸気運送船「長鯨丸」、「神速丸」、帆走運送船「咸臨丸」「美加保丸」の8隻である。以後、榎本と行動をともにした艦船群を「榎本艦隊」と呼ぶこととしたい。

 榎本はこの8隻のほか会津藩への物資輸送のため「順動丸」を越後方面へ、庄内藩支援のため「長崎丸二番」を出羽方面へ派遣しており、これとは別に第二次幕長戦争でも活躍した蒸気運送船「太江丸」と帆走運送船「鳳凰丸」が仙台藩へ貸与されていた。早い話、榎本は東北へ脱走した時点で2ケタの艦船を指揮下に収めていたことになる。

徳川家脱走部隊も率いて
五稜郭で「蝦夷地平定」を宣言

「新政府軍反攻開始時における両軍の海軍」「新政府軍反攻開始時における両軍の海軍」
出所:「赤塚源六北地日記」、伊藤之雄編著『維新の政治変革と思想』第6章、大山柏『戊辰役戦史』補訂版、下巻などより作成。
注:蒸気船が導入されたばかりの幕末期日本では船舶の管理制度が未整備であり、排水量に諸説ある船も少なくないため、最も合理的と思われる数字を採用した。
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 松島沖に入り奥羽越列藩同盟と合流した榎本艦隊だが、ここも安住の地とはならなかった。新政府軍が奥州街道を掌握するなど、品川脱走の時点で同盟軍の劣勢は明らかになっており、明治元年(1868)9月15日には仙台藩が新政府軍へ降伏、榎本は身の置き場を失う。榎本はなお抗戦を望む同盟軍の敗残兵を収容し、10月12日に石巻南東の折ノ浜を出航、盛岡藩領宮古湾(現在の岩手県宮古市付近)で薪を補給して蝦夷地へ向かった。榎本艦隊は石炭を入手する手段を失っていたのである。

 榎本艦隊に乗り込んだのは大鳥圭介(元歩兵奉行)、古屋佐久左衛門(元歩兵差図役頭取)、土方歳三(元新選組副長)らが率いる徳川家脱走部隊(伝習隊、衝鋒隊、遊撃隊、彰義隊など)、仙台藩の洋式部隊額兵隊など約2500名。元老中の板倉勝静、小笠原長行、元京都所司代の松平定敬らの大名、初代軍艦奉行で元若年寄の永井尚志らの高級幕吏も榎本艦隊に身を投じた。陸軍力を加えた今、これからは彼らを榎本軍と称することとしたい。

 10月21日に榎本軍は箱館の北北西40キロメートルに位置する鷲ノ木へ上陸、箱館へ南に直進する部隊を大鳥圭介が、海岸沿いに進む部隊を土方歳三が指揮して進撃を開始した。25日には「回天」「蟠龍」が箱館港に入り、陸戦部隊が上陸して弁天台場などを占領して陸軍部隊を支援、翌26日に大鳥隊が箱館の洋式城郭五稜郭を占領した。