家康はどうだったかといえば、どの段階で和平が実現したかにもよるが、領地を大幅に拡大するチャンスとして、関東移封が有力な可能性として念頭にあったはずだし、北条氏もそれを警戒していた。

 1590年の小田原征伐と、それに引き続いた東北地方の仕置きで、素直に秀吉に従わなかった大名たちは淘汰され天下統一ができた。徳川家康に、関東への移封が伝えられたのは、小田原城が開城する前のことであったが、家康にとっては青天の霹靂(へきれき)だったはずはない。

新参者の井伊直政が
家臣トップに

 家康にとってこの転封は、願ったりかなったりだった。先祖の地と自分で称している上野国(新田郡世良田。現群馬県太田市)や、源頼朝が幕府を開いた鎌倉の主になるのは、大歓迎だった。

 太閤検地のときの石高(江戸時代の各藩の石高は関ヶ原の戦いの後に検地をし直したものが基本である)でいうと、桶狭間の戦い直後で15万石、長篠の戦いのころで40万石、武田滅亡直前で50万石、武田滅亡後で65万石、小田原の役の前で110万石、関東移封後で220万石(近江の飛び地を含む)といったところだろうか。

 なにより、土豪出身の三河武士を、それぞれの出身地から切り離せることは好都合だった。家臣の方たちは骨の髄まで三河人で、武士か農民かはっきりしないような親戚も多いから大反対だった。そこで家康も内心の喜びを隠して残念だというような顔をしながら、「陸奥の国に移ろうとも百万石の領地があればいかようにでも生きていける」と、少し前向きな慰めも演出して従わせたのだろう。

 この時代、日本全体を統一国家にすることを秀吉も狙っていたが、それと同時にそれぞれの大名も領国を中央集権化したかったし、秀吉もそれを望んでいた。

 とくに厄介だったのは、いわば兼業農家として先祖代々の土地に縛り付けられている家臣たちを土地から切り離して、フルタイムで働ける官僚・軍人集団にすることだった。

 そのためには、引越ししたほうが組織改革をやりやすかった。家臣間の序列も好きなように変える機会でもあった。新領地では、新参者の井伊直政が上野箕輪(後に高崎)12万石に抜擢されて筆頭となり、本多忠勝が上総大多喜10万石、榊原康政が上野館林10万石ととなって、独立性の強い軍団を形成した。

 家康の子どもたちや松平一門を別にすると、あとは、小田原に大久保忠隣が6.5万石で、鳥居、平岩、奥平、酒井などが3万~4万石で大きな差がある。酒井は忠次が隠居していたので、嫡男で家康のいとこである家次が下総臼井3.7万石で留まった。

 信康事件のために家康から意趣返しを受けたという説もあるが、世代交代期で家次の素質がもう一つだったので軽視されたのだろう。ただし、家次は晩年になって高田10万石をもらい、さらに子孫は庄内藩主となって家格は回復した。