江戸の居城は
家康の趣味ではなかった
ただ、関東へ移るだけでなく、江戸を本拠にするように秀吉から下知されたときには、家康は困り果てた。大きな川の河口に近く、良い港になる場所に都市を築くのは、秀吉の趣味で家康の趣味には合わないということは、かつて『なぜ家康は江戸城を嫌った?「信長・秀吉・家康」が好んだ城の特徴とは』で紹介した。
秀吉が、家康に居城はどこにするつもりか聞いたところ、家康は「とりあえずは小田原に入ろうかと思う」といったが、秀吉は地図を見せて「この江戸というのはまことに良い所だから、最初からここに行けばよろしかろう」と指示したともいう。
江戸の歴史と地形はまた別の機会に紹介するが、大ざっぱには、利根川の河口部が現在の隅田川であり、神田川の本流が飯田橋からお茶の水を通らずに現在の日本橋の下を流れる川だった。江戸城は神田川上流の南側、早稲田から市谷にかけての丘陵の先端部にあって、銀座のあたりは海とか前島という洲だった。
大坂城が淀川と大和川旧流の河口部に、南から伸びる上町台地の先端部であるのと同じでまさに兄弟都市だ。
本来は、太田道灌が利根川の対岸にあった古河公方の根拠地ににらみをきかすために築いた城で、東からの敵の来襲に備える構造の都市なので、それが幕末にあだとなった。
家康は、海が嫌いだし、武士が商人たちと一緒に住んで軟弱になるのも嫌がった。実際、家康が選んだ本拠地は、浜松や駿府だし、子どもたちの居城を、海岸に面した越後福島城から内陸で雪深い高田へ移したり、水害に弱い清洲をやめて新しい城を築くときに、熱田の港に近い古渡を避けて台地上に名古屋城を築いたりしたことでもわかる。
低湿地で大土木工事をするのは、家康の趣味でない。家康がのちに幕府を開いたのは、江戸でなく伏見だし、1607年にはやはり内陸の駿府に隠居城を築いて移った。
(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)