北条氏政は無能だと言われるが、本能寺の変のあとの混乱に乗じて上野を獲得し、氏直の正室に徳川家康の娘督姫を迎えた。この時点で、北条の勢力圏は伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野の大部分といったあたりだった。

 秀吉は柴田勝家と対立していたので、上杉氏と早くから友好関係を樹立した一方、北条氏が秀吉と対立する徳川とも結んだので、北条との関係は良くなかった。

 これらについては『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)と『日本史が面白くなる「地名」の秘密』 (光文社知恵の森文庫)に詳しく書いた。

聚楽第大広間の末席で
屈辱的な扱いを受けた北条氏規

 家康は秀吉から依頼されて、北条氏に上洛を要求し、しないなら娘と離別して返してくれといった。そこで、氏政は弟の氏規を上洛させ時間稼ぎをした。

 このときは、安芸の毛利輝元が初めて上洛し、聚楽第大広間には、聖護院門跡(近衛家)、菊亭右大臣、織田信雄内大臣、徳川家康大納言、三位参議になったばかりの毛利輝元、四位侍従の小早川隆景など公家や大名が官位の順に並んでいた。

 美濃守ではあるものの官位を持たぬ氏規は、侍烏帽子で褐色直垂という簡素な服装を着て末席で屈辱的な待遇を受けたが、早く動かないと北条の立場は悪くなるばかりと理解した(そのかいあって、氏規は親豊臣派として評価され、末裔は大阪狭山藩主として生き延びた)。

 お国替えとか、氏政や氏直が京に住めと言われるとかいううわさが流れたことも、心配を増幅させたし、家康上洛のときに大政所を実質上人質に出したのだから、同じ配慮が欲しいとかも分不相応に言い出して時間を稼ごうとした。

 最後は、上野最北部の真田領について、沼田などは北条領とするが、真田家墳墓の地である名胡桃だけは真田に、となったのを、沼田城主の猪俣邦憲が奪った。これに対して秀吉が怒ったが、事態を収めるために邦憲の腹を切らすべきところを渋ったため、墓穴を掘った。

 氏政は切腹。氏直は改易されたが、大坂に屋敷を与えられ中大名に取り立てられるはずだった。だが、若くして死に、未亡人の督姫は池田輝政と再婚して多くの子をなし、鳥取藩池田家や公家の勧修寺家を通じて現皇室にDNAを伝えている。

 もし、このとき、北条氏政が上洛したら領地を安堵され、毛利や上杉と同格の扱いを受けただろうが、関東・東北平定に出兵させられ、東北に移されたかもしれない。朝鮮遠征にも派兵させられただろう。