ねねの像ねねの像 Photo:PIXTA

寧々は家康側に立ったという
江戸時代からの「都市伝説」

『どうする家康』は、多くの合戦をナレーションだけで終わらせてきたが、関ヶ原の戦いは、じっくり描くようだ。

 そこでは、秀吉の正室である寧々は家康に好意的で、秀頼の母である茶々(淀殿)は、家康にいろいろ策略を労するが、基本的には石田三成を操っていると描かれつつある。

 これは江戸時代以来の伝統的な分析に近いのだが、私は寧々が家康の側に立ったというのは、まったくなんの根拠もない都市伝説であると思う。むしろかなり旗幟(きし)鮮明な西軍の味方だった。

 一方、茶々の方は、最後は西軍の総大将である毛利輝元と一緒に大坂城にいたから西軍の側に立ったのだが、浅井三姉妹の二人の妹が東軍だったから困惑し、中途半端な態度だったのである。

 秀吉の遺言では、茶々と秀頼は堅固な大坂城に守り役の前田利家と共に住み、寧々は伏見城にあって家康が政務を仕切るのに助言をするようになっていた。茶々は伏見にとどまりたがったが、利家の説得で大坂に移った。そして、やや謎なのだが、寧々も大坂に同行して西の丸に入った。利家夫人のまつと一緒の方が心強かったのかもしれない。

 だが、利家の死後、3年間は大坂を離れるなという利家の遺言を軽視した息子の利長が加賀に一時帰国したところ、家康は謀反の疑いをかけ、まつと夫人の永姫(信長の娘)を人質にしたので、利長は屈して、まつは江戸に移った。

 これで心細くなった寧々は京の御所の近くにあった京都新城(三本木邸。現在の京都仙洞御所)に移り、大坂城西ノ丸には家康が入った。寧々は公家衆や寺社関係者にも友人が多かったので気が楽だったのだろう。

 家康が会津遠征に出陣したのは大坂城からで、茶々と秀頼は軍資金を与えているが、寧々は蚊帳の外である。そして、石田三成が挙兵した後は、西軍に近い立場で行動した。