煮え切らなかった
茶々の態度

 一方、茶々は煮え切らなかった。家康のやりようには、憤まんやる方なかったが、利家が死んで、利長や三成が失脚し、大坂城に乗り込んだ家康の言いなりにならざるを得なかったし、妹の江のしゅうとである信頼感もあったようだ。

 なので、利長が家康から脅されたときも助けるための積極的な行動は取らなかったし、会津攻めでは家康に軍資金まで出した。乳母である大蔵卿の息子の大野治長は、家康への暗殺未遂の疑いをかけられ、下野に流されていたので、家康に利用されて東軍に参加していた。

 しかし、茶々は三成が挙兵し、毛利輝元や宇喜多秀家も味方し、西軍が挙げた家康の罪状はもっともなものだったから反対はできなかった。

 また、茶々の周囲には信雄など織田家の者たちがいて、あまり片方に深入りはしない方が良いと助言しただろうし、それゆえか曖昧な態度に終始した。特に三成にとって心外だったのは、豊臣家として軍資金を出さなかったことだ。

 西軍に与した後も、勝ったら家康には腹を切らせるか隠居させればいいが、秀忠にはしかるべき領地を残してほしいという気持ちだし、まして、8歳の秀頼を出陣させるということについては、茶々は絶対に反対だった。

 総大将の輝元にまで「大坂城から出ないで近くにいてほしい」とか言っているうちに敗戦となり、三成たちが勝手にやったことと、言わざるを得なくなった。