寧々の周辺は
西軍関係者で固められていた

 そもそも、寧々の周辺は西軍関係者で固められていた。右腕でいわば女官長の孝蔵主は、三成の縁者だった。寧々は三成の娘も養女としていたともいう。戦いの前に豊国神社で行った戦勝祈願にも寧々は参加した。

 兄の木下家定や子どもたちのほとんども西軍寄りだった。家定は三成が挙兵した時には「北政所様の護衛」と称し京の三本木にいたし、家康から言われて伏見城の守備をしていたおいの勝俊も、弟の小早川秀秋が攻撃側の大将と聞いて、退去した。次男の利房は西軍に属し、加賀大聖寺城攻撃に参加した。ただし、三男の延俊は家定の居城である姫路城の城番をしていたが、細川藤孝の娘婿だったことから東軍についた。

 小早川秀秋は最初、西軍について、家康の留守居だった鳥居元忠がこもる伏見城を攻撃した。戦場で裏切ったのは、家康が家老の稲葉正成(春日局の夫)などを籠絡した結果で、寧々と関係があった形跡はない。三成からは、秀頼が成長するまで関白にすると言われたものの、家老に迫られて、9月15日の戦いでは土壇場で裏切った。

 戦国の世で裏切りは珍しくないが、戦場で扇の要というべき場所を自分で占めておいて、だまし討ちのような形で大谷吉継の陣に襲いかかったなど、破廉恥そのものだった。吉継の母親である東殿は、寧々の侍女だったのだから、寧々としてはおいの裏切りは許せなかっただろう。

 宇喜多秀家の妻・豪姫は、前田利家とまつの娘で、秀吉と寧々が実の娘同様に溺愛していたが、秀家は西軍の事実上の総帥として関ヶ原の戦いで戦い、戦後しばらくして八丈島に流されたが、豪姫はしばらくの間、寧々が手元に置いて面倒を見ている。こういう周囲の状況を見ても、寧々が家康と気脈を通じていたなどあり得ないのである。