寧々を丁重に
扱わなかった家康

 関ヶ原の戦いの後も、家康が寧々を丁重に扱った形跡はない。まず、兄の家定が死んだときは、寧々の意向で跡目を長男の勝俊にしようとしたが、家康は寧々が「もうろくしている」といって改易してしまった。

 寧々は京に住み、時々大坂に下って秀頼とも会っていたが、1611年には、家康と秀頼の二条城会談に同席している。

 大坂の陣の時は、寧々は大坂に向かおうとしたが家康に阻止されたともいうが、ほとんど何もしてない。というのは、側近の孝蔵主がこの年の春に江戸の秀忠の元に移ってしまったからだ。孝蔵主は近江の人で、秀吉の下で女奉行といって良いほどの辣腕(らつわん)ぶりを発揮し、秀次を聚楽第から連れ出して伏見へ送り出し、大津城の開城を勧めた際にはあっせんもしている。

 どうして、寧々の元を去ったのかは謎だが、仲たがいしたのでなかったら、家康からだまされて江戸におびき出されたかくらいしか思いつかない。戦国史の謎である。

 そして、豊臣家滅亡の後は、寧々の懇願を排して豊国神社を廃止している。最初は打ち壊すと言ったが、寧々の嘆願で朽ちるのに任せた。

 これらのことからも、家康が寧々を大事にしたとは到底いえないだろう。

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)

※本記事の内容は主として『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)による