諸行無常な自分自身を知る「一人称の死」
続いては、仏教系新聞社「仏教タイムス社」が選んだ作品をご紹介させていただきます。「仏教タイムス賞」は、光蓮寺ビハーラハウス(岩手・盛岡市)の「てえへんだ てえへんだ この俺が死ぬなんて てえへんだ」という作品で、講評は以下の通りです。
いわゆる三人称の死は他人事でどこか遠いことのように思い勝ち。しかし、自分のことだと気が付いたときが一人称の死となります。一人称の死を考えるのは大変なことです。それをユーモラスに表現しています。
20世紀フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは、「当事者性を持たない抽象的な死一般を指す三人称の死」「自分にとってかけがえのない近親者の死である二人称の死」「当事者である自分自身の死である一人称の死」の三つに死を分けました。
その上で、「二人称や三人称の死とは違って、一人称の死を経験不能な世界と位置付け、それは自分自身では知ることができないもの」と主張しています。
というわけで、経験不能で不可知な一人称の死と直接向き合うことは、実に大変なこと(てえへんだ)なのですが、それと向き合うところから、仏教は始まります。
お釈迦さまは青年の頃、城門の外で死者を見て、いずれ自分もこうなると思い、深く悩まれたという「四門出遊のエピソード」があり、これが出家のきっかけとなりました。
健康なときは自分自身(一人称)の死から目を背けることができるかもしれませんが、必ず目を向けなければならないときがやってきます。年齢に関係なく、自分自身が諸行無常な存在であることを常に意識しながら生きることが重要なのではないでしょうか。