人の犯した過ちはやたらと目に付くものです。それを赦(ゆる)したとき、恩着せがましい気持ちになったりしてはいませんか。一方で、自分の犯した過ちに気付かず、あるいは直視するのを避けていても、それは必ず誰かから赦されているのです。(解説/僧侶 江田智昭)
Hatred ceases not by hatred, But by love.
今回の掲示板の言葉は、アメリカの宗教家であるジョセフ・マーフィー氏の名言として広まっている言葉です。
近年、他者の過ちを必要以上に叩く人の存在がSNSなどを通して可視化されるようになりました。他者の過ちに対する過度な攻撃は、たとえそれが匿名であっても、ブーメランとなって、自分自身の行動に対するプレッシャーへと変わっていきます。
ところがSNSを見る限り、他者の過ちを徹底的に追及することがその後の自身の行動の足枷になること(自身の不幸につながること)に気付いている人はあまり多くないようです。前回も取り上げた『スッタニパータ』には、このような言葉があります。
人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自分を断つのである。
他者の過ちを必要以上に攻撃したりすると、タダでは済みません。それがおのれへの攻撃にもつながっていることをよく覚えておく必要があります。
また、過ちを全く犯さずに生きている人はこの世界に存在しません。どんな人もさまざまな過ちを周囲に赦(ゆる)してもらいながら生きているのです。このことを忘れてはなりません。
「赦す」に関するエピソードを一つ紹介させていただきます。1951年、のちにスリランカ大統領となったジャヤワルダナは、当時のセイロン代表としてサンフランシスコ講和会議に出席していました。
多くのアジア諸国は、第二次世界大戦で日本軍から被害を受けました。もちろんセイロンもその例外ではありません。日本へ強い制裁を求める国が現われ、会議が大変紛糾する中、ジャヤワルダナは演説の中で以下の言葉を述べました。
Hatred ceases not by hatred, But by love.
これは、『法句経』の中の「怨(うら)みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む」という有名なことばに由来したものです。
ジャヤワルダナはそのスピーチの中で、対日賠償請求権の放棄を宣言し、日本を国際社会の一員として受け入れるように強く訴えかけました。この演説は、議場の人びとの心を揺さぶり、制裁を求めた戦勝国をも動かしたことで知られています。
前年には朝鮮戦争が起き、東西冷戦の最中でもあり、もし彼のスピーチがなければ、その後の日本がどのようになっていたことか。日本はアジア諸国に対して多くの過ちを犯しましたが、寛容な気持ちで赦してくれた方がいたからこそ、現在の日本や私たちがあるのです。
私たちは、他者を赦したことを覚えていても、他者から赦されたことは忘れてしまいがちです。自分自身がこれまでたくさん赦されてきたことをしっかり認識し、そのことに対して感謝できていれば、他者の過ちを徹底的に攻撃する気持ちにはなれないのではないでしょうか?
自分自身が無数の赦しの中に存在していることを決して忘れないようにしたいものです。