息を吐くようにウソを垂れ流す人がいます。巧言令色で中身を伴わない人もいます。言葉だけ立派でも、信用ならない人は意外と多いものですが、この釈尊の「ことば」は、本当は何が言いたかったのでしょうか。(解説/僧侶 江田智昭)
「無我」
東京・渋谷区にある日蓮宗のお寺、妙圓寺の掲示板です。お釈迦さまは常に「ことば」に関して細心の注意を払うように促されています。
自己を苦しめず 他人を傷つけない言葉のみを語れ(『スッタニパータ』)
これは大変有名な言葉ですが、実践することは非常に困難です。皆さんもご存じのとおり、「ことば」は時に人を傷つけ、人の命を奪うきっかけさえも作ります。非常に恐ろしい可能性を秘めているからこそ、「ことば」に対して気をつけなければならないのです。
実際にこのような「ことば」を釈尊(お釈迦さま)がおっしゃったのか、と疑問に思われる方もいるかもしれません。『シンガーラ経』(六方礼経)の中には以下のような言葉があります。
言葉だけを大事にする者は友ではなく、見せかけの友である
片山一良訳『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ) パーティカ篇I』(大蔵出版)を確認すると、「友ではない」という表記が複数登場し、その「友ではない」のところに注釈で「敵」という言葉が出てきます。ですから、この掲示板の言葉は決して大袈裟でも間違いでもありません。
ところで、みなさんは「ことばだけ立派な者」という言葉から何を思い浮かべましたか?「理想ばかりを並べて、何も実行しない政治家」「部下に文句を言いつつ、全く自分では動かない上司」など、身の周りのさまざまな他者の姿を連想したのではないでしょうか?
昨年、曹洞宗の青山俊董老師が「東京新聞」のコラムの中で、澤木興道老師の法話会でのエピソードを紹介していました。
澤木老師が法話を終えて、控室に戻られました。そこに、お寺の姑さんがすぐにおしぼりを持ってきて、「今日は大変素晴らしいご法話をありがとうございました。きっとうちの嫁にとっては耳の痛い話だったと思います」とおっしゃったそうです。
その後、入れ替わりでお茶を持ってきたお嫁さんが一言。「ありがとうございました。今日の話はうちの姑にはさぞかし耳が痛かったことでしょう」。
青山老師はこのエピソードに触れながら、「せっかく正師より仏法(仏教の教え)の話を聞いても、聞き方が悪いと他を非難する材料にしてしまう」と書いておられました。
仏教の教えは、あくまでわが身を省みるためのものであり、他者を非難・攻撃するための材料ではありません。皆さんは、この掲示板の言葉を見た時、誰かを非難する材料として活用しようとしませんでしたか?
これまでの自分自身の言動を真剣に振り返ってみると、きっと誰もが「ことばだけが立派な人」に該当することに気付くことでしょう。
この連載でさんざん立派な言葉を並べ立ててきた私自身も、残念ながらそれに当てはまります。外に発する言葉と実際の振る舞いに全く相違がない人間は、おそらくこの世界に存在しません。
この二つが乖離しているからこそ、自身を省みる作業をコツコツと続ける必要があります。「ことばだけ立派な者は敵である」。自身の「言葉」と「振る舞い」の隔たりがあまりにも大きくならないよう、この言葉をいつもわが事として肝に銘じたいものです。