生きていると“先生”と呼ばれる人にたくさん出会います。その中で自分にとっての「師」と呼べるような人は思い浮かびますか。「師」と出会うためには、弟子である自分自身にも準備が必要となるのです。(解説/僧侶 江田智昭)
ミンナニデクノボートヨバレ
今回は静岡市清水区にある鳳林寺の掲示板です。みなさんには「師」と呼べる人が周りに存在しますか?
宗教には「師」が基本的に不可欠と言えるかもしれません。例えば、浄土真宗の開祖である親鸞は、法然を師と仰ぎました。
法然による念仏の教えは、当時、華厳宗の明恵をはじめとした僧侶たちから非難されましたが、親鸞は「たとえ法然上人にだまされて地獄に落ちたとしても私は後悔しません」という言葉を残しました。師の法然に対する信頼がいかに強かったかが分かります。
このように一人を師として信順する形もありますが、同じ社会に生きるさまざまな人々を師として仰ぐ形も存在します。例えば、『華厳経』の入法界品(にゅうほっかいぼん)の中には、善財童子が文殊菩薩に勧められ、さとりを求め、旅に出るエピソードがあります。
そのエピソード中には53人の師(善知識)が登場します。善知識の中には、僧侶だけでなく、船頭、医師、商人、子どもなども含まれており、こうした人びとと対話する中で、善財童子は最終的にさとりに到達するのです。
また、「さまざまな人々を師と仰ぐ」といえば、『法華経』の中で登場する常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)も有名です。常不軽菩薩はどのような人に対しても、「私はあなたがたを深く敬います。決して軽蔑しません。なぜなら、あなたがたはみな、菩薩の道を実践して、将来きっと仏になるからです」と呼び掛け、礼拝しました。
多くの人びとは、礼拝してくる常不軽菩薩の姿勢を不審に思い、迫害を繰り返しました。しかし、それに全くめげることなく、どんな人にも常に敬意をもって、礼拝を行ったのです。
宮沢賢治は常不軽菩薩の姿勢に強い影響を受けたことで知られており、彼の死後に見つかった代表作である『雨ニモマケズ』は、まさにその表れだと言われています。雨ニモマケズ、風ニモマケズで始まり、最後はこのように綴られています(表記には異説もありますが)。
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノトキハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ
この「デクノボー」とはまさに「常不軽菩薩」を指しており、「常不軽菩薩ノヨウニワタシハナリタイ」と賢治は心の中で思っていたようです。
「常不軽菩薩ノヨウニナル」――これは簡単なようで、実はかなり困難です。なぜなら、人間の心の中にはプライドや傲慢さが必ず潜んでいて、それらが邪魔してしまうからです。
みなさんも一度自分自身に「周囲を敬い、教えを乞う謙虚さを持ち合わせているか?」と問いかけてみてはいかがでしょうか?
インターネットが発達した現代社会では、人々と繋がる機会や学びを得る機会が無数に広がっています。あなたが心の中に謙虚さを持ち合わせた瞬間、きっとさまざまな師が目の前に現れることでしょう。