【お寺の掲示板117】悩みや苦しみを断捨離するには超覚寺(広島) 投稿者:chokakuji [2023年7月16日]

高度成長期に根付いた文化の一つが持ち家信仰でしょう。ウサギ小屋と揶揄(やゆ)されても、一生掛けて自分の身の置き場を獲得する。しかし、死んでしまえば何も持って行けるものはありません。自分の身体も含めて、すべては“借り物”なのですから。(解説/僧侶 江田智昭)

“自分のもの”など何もない

 今回は、「お寺の掲示板大賞」一番の常連である超覚寺(広島市中区)の作品です。仏教では、時代によって若干変化していますが、基本的に「所有」という感覚を戒めてきました。

 仏教最古の経典と言われている『スッタニパータ』には、「私はバラモンではないし、王族の者でもない。庶民の者でもないし、また、他の何者でもない。諸々の凡夫の姓を知りつくして、無一物で、熟慮して、世の中を歩む」とあります。「無一物」とは、「全くモノを持たない」ということです。つまり、お釈迦さまは肩書的なレッテルを自身に貼ることを拒否し、無一物で生きることを宣言しているのです。

 大乗経典『十地経』には、修行の第一段階(第一地)で、財産、園林、精舎、妻子だけでなく、時には頭、肉、心臓などまで捨てよという言葉が出てきます。

 最近、「断捨離」の特集をよく目にします。身の回りの整理にどんなに熱心に励んでいる人でも、財産、頭、肉、心臓までは、きっと捨て去ることはできないでしょう。

 私たちは、自分の身体や身の回りにあるさまざまなものを“自分のもの”として認識しながら生活を送っています。しかし、“自分の所有物”など、本来この世には存在しません。心の中で“自分のもの”というレッテルを貼り付けて、勝手に保持しているだけです。自分が死んだとき一緒に持って行けるものは、残念ながらこの世に何一つないのです。

「自分のもの」など存在しないのに、さまざまなものを「自分のもの」と錯覚してしまう。まさにこの錯覚こそが、私たちに大きな苦しみやトラブルをもたらします。

 これは個人だけでなく、国家などにも当てはまります。国境を巡っての紛争が世界中で絶えず繰り広げられていますが、それらのトラブルの根源は、それぞれの国家の「所有」の感覚にあります。

 お釈迦さまは「所有」の感覚がさまざまな苦しみを生み出す根源であると知っていたからこそ、「無一物となった者は、苦悩に追われることがない」(『ダンマパダ』)とおっしゃったのです。

 とはいえ、資本主義社会の中に生きている私たちが、「全く物を所有しない(無一物)」なんて絶対に不可能です。ですから、試しに「自分の身体を含めたすべての“自分のもの”は、“自分のもの”ではなく、一時的に借りているもの」という認識を持ってみると良いかもしれません。

 不動産には、「定期借地権」(数十年の契約期間を満了するとその土地の借地権がなくなり、更地の状態で返却する)という言葉があるようです。その考え方同様、私たちも自分の身体や所有物を、必ずあと数十年の間にどこかに“返却する”ことになります。

「すべてかりもの」。その感覚で自分の身体や所有物をじっくり眺めてみてください。自分の頭も心臓も、持っているお金も、数十年以内には必ずすべて“返却”しなければならない。このことをしっかり意識してみると、日常の生き方が変化し、ありふれた風景が変わって見えるかもしれません。