私は布施を「見返りを求めないで何かをさせてもらうこと」と言い換えることがあります。「してあげる」は、相手の負担になるので布施にはなりません。お礼を言ってほしいわけではない、感謝してほしいわけではない、ただやりたくてやっているだけ、やりっぱなしでいいという境地です。
そんな境地になるには修行が必要ですが、その修行は「せっかく(一生懸命)やっているのに(「のに」は見返りを求めている証です)、感謝もしてくれないし」とカチンときたり、虚しさを感じたりした時に、「私は見返りを求めているのだ」と気づくことからスタートします。見返りを求めていると相手が知れば、相手は「端(はな)から見返りを期待しているなら、やらなくて結構です」とそっぽを向くこと必定です。
高尚な布施行を実践したいわけではなく、もう少し感謝してほしければ、まずこちらから相手に感謝の気持ちや言葉を発射し続けてみてはどうでしょう。そうすれば相手も気づいて感謝してくれて、お互いにハッピーになれるかもしれません。
試しにやってみませんか、感謝の報復合戦。
暇な時間こそ貴重な時間
私はほぼ毎日ブログを更新しています(飲みすぎた日を除く)。
各方面で「今日一日何もなかった、何も感じなかった日などあるはずがありません。もしないなら、それは心のアンテナの感度が鈍っているのでしょう。感性のアンテナを張って充実した日々を過ごしましょう」と話したり書いたりしているので、それを実践していることをお知らせするのが目的です。文章を書く練習にもなり、本を書かせてもらっている間は、読者へのアフターサービスの一環として続けるつもりです。
私のブログを読んで、私が毎日忙しくいきいきと、いろいろなことをやっているように思っている方がいるのですが、その中に、いきいきと生きていない自分を卑下する人がいます。忙しく、ハキハキと動いている人を見て、暇な自分に罪悪感を抱いているようなのです。スケジュール帳にぎっしり予定が入っていると安心するタイプの人です(以前の私です)。野生のライオンや飼い猫を例にするのは極端かもしれませんが、彼らは獲物を狩る時以外は暇そうにしています。だからといって、彼らが不幸でないのは明らかです。何もすることがないからといって、自分を卑下する必要もなければ、罪悪感を抱く必要もありません。