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ベストセラー作家・宮部みゆきが、デビュー36年目にして初の書評集を刊行した。半藤一利や佐野眞一などノンフィクション作家との交流も深い彼女は、ノンフィクション本をどう評するのか?はたまた現代の小説家として、文豪たちが遺した怪談をどう読むのか?読書好きなら必見の書評集から3本をセレクトした。本稿は、宮部みゆき『宮部みゆきが「本よみうり堂」でおすすめした本2015-2019』(中公新書ラクレ)の一部を抜粋・編集したものです。なお、初出は『読売新聞』読書面「本よみうり堂」に掲載されました。

事実と事実の間を埋める
物語を人々は求めてしまう

『日本ノンフィクション史』(中公新書)
著/武田徹

 いきなり私事で恐縮だが、私の高校の先輩には著名なノンフィクション作家が2人いる。これまで何度か3人でお話しする機会に恵まれて、お二方の作品の舞台裏や取材の苦労などについて聞かせていただき、そのたびに思うことがあった。ミステリー作家の私は、自分の作品(物語)が現実の事件を模倣しないよう気をつけねばならない。対して先輩方は、自身の作品が既存の物語に寄ってしまわないように──つまり取材や資料の読み解きの際に、それらを既存の事象に与えられている解釈に押し込めてしまわないように、あくまでも事実の示すところに忠実であるように自分を律せねばならない。

 これは仕事として全く逆方向のあり方だ。でも、いざ書こうとすると、フィクション作家だって取材をし、取材で得た事実は(物語にリアリティを与えるために)なるべく正確に書こうとするし、ノンフィクション作家だって、取材によって得た事実だけでは埋めきれない空白の部分には想像力を働かせて物語を書かねばならない。本来、対向車線を走っているはずなのに、しばしば越境し合ってしまうのだ。

 フィクションとノンフィクションは、ウロボロスのように互いの尾を噛み合っている。本書の著者は、これを「内部がいつのまにか外部になり、外部がいつのまにか内部になっている」クラインの壺に喩えている。ルポルタージュと呼ばれれば硬派で、実話小説と呼ばれれば胡散臭く、ノンフィクションノベルというぬえみたいなジャンルを生み出し、いつのまにか「非(ノン)・フィクション」という出版界の一大産業になった報道・記録文学の歴史は、事実を物語化したいという人々の欲望の歴史でもあるのだ。本書は、まとまった書籍としては貴重な日本ノンフィクション通史だが、現実の事件に材を得ることが多いミステリーの世界にいる私は、むしろこれからフィクションを書こうとしている方にこそお勧めしたいと思った。