「上馬キリスト教会」というツイッターアカウントをご存じだろうか。
名前から、教会の情報発信をこぢんまりと行っている……と思ったら大間違い。実際は、「『アーメン』を現代語訳すると『それな』、関西弁訳なら『せやな』ではなく『ほんまそれ』」といった、キリスト教を面白く伝えるツイートを連発する人気アカウントなのだ。
“中の人”は「まじめ担当」と「ふざけ担当」の二人組。牧師や司祭ではなく、この教会に通うふつうのキリスト教徒だ。日本ではタブー視されがちな「宗教」を面白く伝えるつぶやきがたちまち話題となり、NHKニュースなどの各種メディアで紹介された。フォロワー数はうなぎ上りに増え、今や10万を超える。
そんな“中の人”の「まじめ担当」が「キリスト教の入門書ですら敬遠してしまう、超入門者」に向けて書いたのが『上馬キリスト教会ツイッター部の キリスト教って、何なんだ? 本格的すぎる入門書には尻込みしてしまう人のための超入門書』(MARO著)だ。現代の必須教養であるキリスト教について、基本知識からクリスチャンの考え方、聖書の大まかな内容にいたるまでを1冊で網羅した。
本稿では、特別に本書から一部を抜粋・再編集して紹介する。(初出:2020年8月2日)
聖書を読んだつもりになるために
キリスト教を理解するには、聖書を読んでいただくのがいちばんなのですが、しかし聖書は分厚い! 長い! 読破には年単位の時間がかかります。
そこでまずは、長い聖書のストーリーをざっっっっくりとダイジェストしてみます。今回ご紹介するのは、「アダムとイブ」のエピソード。
詳しくは知らなくても、何となく聞き覚えがある方も多い話かもしれません。
人間の「罪」は、アダムとイブから始まった
神様が天地をつくり、動植物をつくり、そして最後につくったのが人間、すなわちアダムとイブです。私たち人間の始まりであるアダムとイブがどうやってつくられたのか、聖書には詳しく記されています。
アダムとイブは同時につくられたわけではなく、神様はまずアダムをつくりました。
そしてご自身がつくったほかのあらゆるものを見せて、その一つひとつに名前を付けさせました。アダムはその仕事を見事にやってのけましたが、ほかの動物にはみんな仲間がいて助け合って生きているのに、自分だけ仲間がいないことを寂しく感じました。
そこで神様は「人がひとりでいるのは良くない」と言って、アダムを深い眠りに落とし、あばら骨を1本とると、その骨からイブをつくりました。
「人がひとりでいるのは良くない」って、現代にまで通じる真理ではないかと思います。寂しいときや困ったときに助けを求めること。これは決して「弱いこと」でも「情けないこと」でもなくて、人間として当たり前のことなんです。
人間は「助け手」と一緒に生きていくように神様につくられているということです。
さて、アダムとイブはこうして生まれ、苦労も憂いもない「エデンの園」という楽園で何不自由なく暮らしていました。
そこがどんな場所であったかは聖書に詳しく記載はありませんから想像するしかないのですけれど、綺麗な水と美しくてしかもおいしい実のなる木々がたくさんあったようです。
彼らに課せられたルールはたった一つ。「この園の中央にある樹からは実を食べてはいけない。食べたら死んでしまうよ」だけでした。
しかし悪魔の化身である蛇がイブをそそのかしました。「この実を食べると死んでしまうと神様が言ったそうですが、死にはしませんよ」「むしろこの実を食べると賢くなって、神様のようになれますよ」と言葉巧みに誘惑し、最初は拒んでいたイブもついにこの実を口にしてしまいます。
そしてイブに勧められたアダムも、この実を食べてしまったのです。
すると、二人は急に自分たちが裸であることを恥ずかしく思いはじめ、イチジクの葉で腰巻きを作って身につけました。
「羞恥心」はこのように、「罪=神様のコントロールから外れること」によって生まれたのです。人は本来、人の目を気にして生きるようにはつくられていませんでした。だってほかの動物を見回してみても、人間以外には他者の目を気にして羞恥心を抱く動物はいないでしょう?
そして二人は神様の目をも避けました。約束を破ってしまった自分たちが後ろめたかったんです。
しかし当然神様に見つかり、「君たちは食べちゃいけないと言ったのに、あの実を食べてしまったんだね?」と問いつめられました。
するとアダムは「イブが勧めたから食べたんです」と、イブは「蛇が勧めたから食べたんです」と、お互いに責任転嫁を始めました。
自分の非を認めずに人に責任を押し付けるというのは私たちの社会でもよくあることですが、これも「罪」から来る行いなんです。
もちろん、そんな言い訳が神様に通じるわけもなく、二人はエデンの園から追放されてしまいました。さらに神様は、アダムには「食べるためには汗を流して働かねばならない」、イブには「子どもを産むには苦しまなくてはならない」という罰も与えました。
そして何よりの罰は「いつか必ず死ななくてはならない」ということでした。
しかし神様は同時に優しさも見せます。「裸で恥ずかしいのはあの実を食べちゃったせいだけど、恥ずかしいままでもかわいそうだから」と、二人に皮の服をプレゼントしてあげたのです。
罪を犯してしまったことは叱ったし罰も与えた。
それでも神様は二人を愛していたんですね。