流動性知能と結晶性知能
流動性知能というのは、単純な記憶力や計算力など作業のスピードや効率性が問われる課題や、図形の並び方の規則性を見抜く課題などによって測定される知能のことである。
結晶性知能というのは、経験から学習することで身につけられた知識や判断力のことで、言語理解や一般知識、経験的判断に関する課題によって測定される知能のことである。
結晶性知能は、教育や文化の影響を強く受け、経験を積むことで成熟していくため、成人後も衰えることなく、むしろ年令とともに上昇していき、老年期になってからも向上し続ける、あるいは容易には衰えない。結晶性知能では若い人たちにも簡単に負けることはない。そう思うだけでも不安は払拭され、勇気が湧いてくるのではないか。
生涯にわたって現状を乗り越えようとし続けた葛飾北斎
『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』で知られる葛飾北斎は、国内で有名なだけでなく、ヨーロッパ印象派の画家たちにも大きな影響を与えるなど、すでに生前から世界的に知られる画家であった。
そんな偉大な画家である北斎は、あるジャンルや画風で成功しても、決してそこに安住するような守りの姿勢を取らず、そのジャンルや画風を捨てて別のものに挑戦するというように、絶えず自分の現状を乗り越えようとし続けたところに最大の特徴がある。
その人生をたどっていくと、何歳になっても絵を描くことへの情熱はまったく衰えることなく、89歳で死ぬ直前にも絵を描くことへの情熱を見せていたのには驚くばかりである。その人生の流れをざっとたどってみよう。
北斎は、18歳の頃に役者絵で人気の浮世絵師勝川春章に入門し、翌年には早くも役者絵を描いて浮世絵界にデビューを果たし、滑稽や洒落を盛り込んだ黄表紙の挿絵も数多く描くようになった。浮世絵版画もたくさん世に出している。そうした時期が30代前半まで続く。
このように浮世絵版画で活躍していたにもかかわらず、30代半ば頃からは肉筆画を描くようになり、また狂歌や絵本の挿絵を描くようになった。そして、錦絵はほとんど描かなくなる。
40代前半になると、美人画などの錦絵の制作を再開している。40代半ばから50代はじめの頃は、出版統制により黄表紙等に代わり教訓的な読本が流行ってきたこともあり、読本の挿絵を数多く手がけ、読本作家曲亭馬琴と挿絵画家北斎の二人三脚で、『椿説弓張月』など人気作品をつぎつぎに生み出していった。また、この時期は肉筆画にも精力的に取り組んだ。