50代前半から60代の終わりまでは、絵手本の制作に注力した時期であった。絵手本とは、絵の描き方の教科書のようなものだ。門人が多く、全国に散らばっており、直接指導ができないことも多かったためか、北斎は52歳の頃から絵手本を精力的に制作し始めた。それが後に『北斎漫画』として世界的に知られることになったイラスト集である。 これがベストセラーとなり、続刊がつぎつぎに刊行されることになった。『北斎漫画』は、絵の手本として用いられるだけでなく、工芸品の図案集としても用いられた。葛飾北斎自身、煙草のキセルや櫛のデザイン画も手掛けている。エドガー・ドガやパウル・クレーも『北斎漫画』から人体の表現法を学んだとされ、エミール・ガレも『北斎漫画』のデザインを取り入れた硝子工芸作品を発表している。
60歳で初心に返り、70歳で自分の未熟さを克服しようともがく
60歳になる年に北斎は雅号を「為一」に変えているが、これは一になること、つまり初心に返ることを意味すると見られる。もう隠居してもよい歳を過ぎている60歳で初心に返って絵師としてのさらなる成長を目指しているのであり、驚くべき向上心の持ち主と言えるだろう。
70歳になる頃、また錦絵に注力し始め、風景画というジャンルがまだなかった時代に『冨嶽三十六景』や『諸国瀧廻り』などの代表的な一連の風景画を世に出している。『冨嶽三十六景』の中の「神奈川沖浪裏」がとくに有名であるが、これら風景画における波や滝の迫力があり躍動感溢れる、ある意味で非現実的な描き方に、独特の境地がみられる。これにより浮世絵に風景画という新たなジャンルが確立された。また、花鳥画の錦絵も人気を博し、庶民が花鳥画を楽しむきっかけとなった。
北斎が74歳のときに描いた『冨嶽百景』のあとがきには、50歳の頃から多くの絵を手掛けてきたものの、70歳以前に描いたものは、じつに取るに足らないものばかりだったが、73歳になって鳥獣虫魚の骨格や草木の仕組みがわかるようになってきたので、80歳になればますます会得が進み、90歳になればさらにその奥義を究め、100歳になればまさに神技の域に達するのではないかというようなことを記している。
人生50年と言われる時代に、70歳までに描いたものはどれも取るに足らないものだったとし、73歳にしてようやく何とか描けるようになってきたというのだから、飽くことのない向上心には驚くべきものがある。