紫式部亡き後のミステリーを探る
紫式部は『源氏物語』の他にも、中宮彰子の出産や宮中の様子などをつづった『紫式部日記』、自身の和歌130首を収めた歌集『紫式部集』を残しました。作品や資料が途絶えた40代の半ば(50代の説も)で亡くなったと考えられています。
紫式部の墓所は、市バス「北大路掘川」から堀川通を南へ下がってすぐ、島津製作所紫野工場の敷地に囲まれた一角。かつて紫野で広大な寺域を誇った雲林院の境内だった場所にあります。気付かず通り過ぎてしまいそうな路地を奥へと進むと、紫式部のお墓が立っています。その隣にもう一つのお墓が。紫式部の夫・宣孝でしょうか?一人娘の賢子でしょうか?それとも、ソウルメートといわれる藤原道長……?
この墓石、実は紫式部より100年ほど前の平安初期に活躍した貴族・小野篁(おののたかむら)のものなのです。篁は、昼は朝廷に役人として仕え、夜は冥界に通って死者の罪を裁く閻魔(えんま)王に仕えたというミステリアスな人物で、小野小町は篁の孫に当たるとされています。とはいえ、いったいなぜ、紫式部と小野篁が同じ場所に祭られているのでしょうか?
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その理由は――紫式部が『源氏物語』というとんでもないフィクションを創作し、多くの人々の心を惑わした罪を負い、死後は極楽浄土ではなく地獄に落ちたといううわさが世に広まったから。不憫(ふびん)に思った人々が、紫式部を地獄から助け出すべく、小野篁に救いを求めたのだといわれています。
この紫式部の墓所から鞍馬口通を西へ20分ほど歩くと、千本通に引接寺(いんじょうじ)という真言宗の寺院が見えてきます。「引接」とは、「浄土に往生させる」の意。連載第3回で遅咲きのフゲンゾウザクラ(普賢象桜)をご紹介した「千本ゑんま堂」です。
平安京三大葬送地の一つであった蓮台野(れんだいの)の入り口で、小野篁が定覚(じょうかく)上人を住職として招き、あの世へ通じるこの場所に死者の生前の罪を裁く閻魔王を祀りました。本堂の閻魔王に手を合わせたあと、境内西端にある高さ6mの供養塔で、紫式部ゆかりの京都巡りを締めくくりましょう。
この塔が建立されたのは南北朝時代の1386(至徳3)年のこと。亡くなってから370余年を経ても、このような供養の対象になるのは、紫式部の存在と彼女の残した『源氏物語』の壮大なストーリーが、多くの人の心に深く刻み込まれ続けてきたという証しです。
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