『源氏物語』を執筆するまでの紫式部の足跡
紫式部の生まれた年は、はっきり分かっていません。平安中期の970(天禄元)年から978(天元元)年頃といわれます。父は、和歌や漢詩に優れた藤原為時(ふじわらのためとき)、曽祖父は、三十六歌仙の一人に名を連ねた中納言・藤原兼輔(かねすけ)。上流から落ちた中流貴族で、母は紫式部が幼い頃に亡くなりました。
紫式部の生まれた地は、第53代淳和天皇の離宮「紫野院」が前身の寺院「雲林院」が一帯を占めていた紫野(むらさきの)と伝わります。現在、洛北の大徳寺(市バス『大徳寺前』すぐ)が伽藍(がらん)を形成する一帯で、当時は貴族たちが花見や紅葉狩りを楽しむために訪れるような風流な地でした。
大徳寺の塔頭・真珠庵には、紫式部の産湯に使ったという井戸が現存します。山門から先は通常非公開ですが、毎年秋の紅葉シーズンには特別公開が行われるので、井戸の見学は機会の到来を待ちましょう。
続いて、紫式部が生涯のほとんどを過ごし、『源氏物語』をつづった場所へ。市バス「府立医大病院前」から西へ3分ほど、現在の京都御所東側の中川と呼ばれたあたりに紫式部の曽祖父・藤原兼輔が建てた邸宅があったといわれています。
紫式部はここで暮らし、父の影響で幼い頃から和歌や漢詩に触れ、その才能を開花させていきました。20代半ばの頃、越前守に任命された父に同行し、越前で1年ほど(2年説も)暮らしますが、父を残して帰京。藤原宣孝(のぶたか)と結婚し、後に女流歌人大弐三位(だいにのさんみ)として知られる一人娘の賢子を授かりますが、わずか3年で宣孝が病に倒れ亡くなります。
独り身の寂しさを紛らわすようにつづり始めたのが『源氏物語』だといわれています。面白い物語だと宮中で評判が広まって、時の権力者・藤原道長の目に留まり、道長の娘で一条天皇に嫁いだ彰子(しょうし)に仕え、知性と教養を育む家庭教師のような役割を担うことになったのです。
紫式部が暮らしたという邸宅跡地には現在、第18世天台座主の元三大師良源が開いた廬山寺(ろざんじ)があります。創建当初の洛北・船岡山の南から、度重なる火災を経て天正年間(1573~92年)に現在地へ移転しました。境内には、今から60年ほど前に造営された源氏庭があります。毎年6~9月、白砂と苔(こけ)が織り成す端正な庭に、紫式部を彷彿(ほうふつ)とさせる紫色の桔梗の花が彩りを添えます。
大河ドラマ『光る君へ』で紫式部の初恋の人にして生涯のソウルメートとして描かれる藤原道長ゆかりの地へも立ち寄ってみましょう。廬山寺から西へ徒歩3分ほどの清和院御門をくぐって京都御苑へ。木々に囲まれた芝生の上に「土御門第(つちみかどてい)跡」の碑が立っています。ここには宇多天皇の系統を継ぐ左大臣・源雅信の屋敷がありました。
左大臣家に婿入りした道長は、ここで妻の倫子と暮らしました。出世が見込めない五男として生まれた道長ですが、兄が相次いで病死したため、権力を掌握。3人の娘を3代にわたる天皇に嫁がせ、天皇家の外戚として栄華を極めました。かの有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んだのも、この屋敷で催された酒宴の席だったといいます。
土御門第のすぐ東側には、道長が創建した巨大な寺院「法成寺(ほうじょうじ)」が存在していたことを示す石碑も立ち、道長の栄華のほどがうかがえます。