林真理子の「1行日記」なぜ面白いのか?「読ませる自分史」のたった1つのコツ写真はイメージです Photo:PIXTA

ごく自然体で綴られる「日記」と名のつく作品には、“人に読まれること”を大いに意識した「自分史」とは違った魅力が詰まっている。林真理子の『原宿日記』と内田百閒の『百鬼園戦後日記』の一節から、簡潔でありながらユーモアに富んだ文章とは何か考えてみよう。※本稿は、外山滋比古『人生の整理学 読まれる自分史を書く』(イースト・プレス)の一部を抜粋・編集したものです。

そっけないほどに簡潔な
林真理子『原宿日記』の超技巧

「某月某日 神田カトリック教会にて挙式。」これは林真理子氏の『原宿日記』の、結婚式当日の記録で、読むものはつよい印象をうける。この文章について、著者があとがきで、こう書いている。

「挙式の日は、たった1行だけである。……ずっと以前、ある有名作家の日記に、このような記述があり、私はちょっと憧れていたようだ」

 してみると、何気なく書かれた1行ではなかったわけで、心をこめた文章であったのである。文筆を業とする人でなければ、やはりこうはいかないであろう。ぐだぐだ、こうるさいことを書きたくなるのである。

 すべてを書こうとするから、すこしのことさえ伝わらない。思い切って細部を切りすてて、そっけないほどに簡潔に書くと、読む側が、あれこれ想像して言外の部分を補ってくれる。

 読者には、そのところがおもしろく感じられる。一部始終がすべて書かれていれば、うるさくて、想像をはたらかせる気にもならず、退屈する。省略は芸である。

 日記という形式はこういう要点描写にとってまことに都合がよい。

「某月某日 JAL16便で、バンクーバーに発つ。友人が何人か送ってくれ、皆で空港内のホテルで食事をした。」

 という書き出しで、ハネムーンの旅立ちを話している。

 そのあと報道陣にとりかこまれるのだが、そんなことは後まわしにして、2行で出発をたしかなものにしている。書き出しがいいのである。

自分語りを面白く読ませるには
まず自分を突き放して見てみよう

「某月某日 表参道の歯医者にて、上下2本を抜く。」

 というのは、「このままだと年をとるうちに、どんどん出っ歯になっていきますよ」と言われて「即座に矯正をお願いした」ことの結果である。それをはじめにもっていく。見出しのような役目をしている書き出しが心にくい。

「某月某日 歩行数なんと3200歩。全く嫌になる。これじゃデブになるはずだ。今日こそ歩いて青山通りまで行き、大きなスーパーに買い物に行こうと思っていたところ、宅配便が届いた。保険の外交の方から、先日加入してもらった礼だといって、素晴らしいピンク色の鮭の切り身である。その後、原稿を取りにきた女性編集者が、鴨のくんせいをお土産に持ってきてくれた。今日こそ買い物に行こうと思っていたのに、人の情けで夕飯のおかずができてしまったではないか!」

 というのがまたおもしろい。さらっとしたヒューマー(編集部注/humor。いわゆる、ユーモア)である。著者は、その前につけ始めた万歩計で、16000歩を記録して得意になっているのだから、3200歩というのがきく。「デブになるはずだ」とひとごとみたいに言い放つのもいい。同じことでも、文章の修業のできていない人間では、こうはいかないだろう。