自分のことを書いて、ひとに読んでもらいたかったら、うるさく、こまごましたことを並べないことである。思い切って、削る。省く。抑える。あえて書かないところをつくる。これが実にたいへんなことであると知らなかったら文章が書けるとうぬぼれない方がよいだろう。

 さらに、自分を語って、おもしろいと思われたかったら、自分をつき放してながめることである。わが身かわいやというセンチメンタルな書き方は禁物である。自慢話などそのゆうたるもので、自慢がさらり、おもしろく出来たら大したものである。

 つき放して自分を見るところから、諧謔の妙、つまりヒューマーが生まれる。そのおもしろさを出せるようになれば、自分史は多くの読者をもつ資格がある。

近代日本でトップの名文家は
日記に何を書き遺していたのか

 内田百閒は風変わりな生き方をした文人として知られ、没後になって、若い読者からも注目されてブームを来たし、黒沢明監督が、百閒の生活を映画にした。

 芸術院会員に推されたとき、辞退。わけをきかれて、なりたくないからなりたくない、と答えたのが話題になったこともある。

 それとは別に、ある大作家の文章を、すこし直してあげたい、と言ったこともあった。それは決して不遜な思い上がりではなく、明治以降、近代の日本語で書いた人たちの間で、おそらく百閒の右に出る文章を書いた人はないと思われるくらいの名文家であった。

 その日記は、それぞれの時期でまとめられて、出版された。文学作品として読まれたのである。文体はかつての日記の標準体、つまり文語調である。

 戦後になってすぐの時代の日記は『戦後日記』として収録されている。

 本になったものは、ひら仮名(旧字体、旧かな遣い)で、普通の句読点がついているが、原日記は、「すべてカタカナで、しかも句読点なし、改行もまったくない文章がノオトをびっしり埋めている」(平山三郎「おぼえ書」)「日記帳には大判の分厚い大学ノオトを使っていた。タテ罫の上欄に棚のあるのを好んだ」という。