ウォード家の場合に限って言えば、軽薄でお調子者な息子に比べ、娘の方が堅実で真面目だったということもあるが、一般論として父親は娘に対して甘いところがあるもので、それによって手紙の内容や調子も自ずと変わってくるのだろう。

なぜ母親から娘や息子への
「手紙系自己啓発本」はないの?

 それにしても、長い自己啓発本の歴史の中で、「父から息子/娘への手紙系自己啓発本」というジャンルはあれども、「母から娘/息子への手紙系自己啓発本」はない、というのは、考えてみればおかしな話である。

 思うに、母親が娘/息子に願うのは、「心身の健康」や「幸福」といったシンプルなことであるのに対し、父親が息子/娘に対して願うのは、「〈自分と同じように〉立派に生きてもらいたい」ということなのではないか。そこには「自分はこの人生である程度の成功を収めてきた」という自己満足的な自負心が前提としてあり、その自負心が、「お前たちも俺を見習え」という趣旨の若干押しつけがましいアドバイスの背後に鎮座しているのだろう。

 ところが面と向かってそれを伝えるとなると、なかなか上手い具合にはいかないし、そもそも気恥ずかしさが先に立つ。で、口で言えないとなれば手紙という手段に訴えざるを得ず、そうして文字として残ったものが、「父から息子/娘への手紙系自己啓発本」だったのではなかろうか。その意味で「父から息子/娘への手紙系自己啓発本」という文学ジャンルは、男性特有の「プライドの高さ」と「コミュニケーション下手」が相まって生じた文学現象と言っていい。

 そんなことを思うにつれ、ふと頭に浮かぶのは、数年前に亡くなった私自身の父のこと。父は私に面と向かって処世訓を垂れるような人ではなかったが、しかし、自身の人生について、ある程度の自負は持っていたと思う。そんな父がもし、私に対して「父から息子への手紙系自己啓発本」を書いたとしたら、どんな風になっていただろうか?

 ひょっとしてものすごくウザいものになったかもしれない。だが今は、たとえどんなにウザいものでもいいから、それを読んでみたかった気がする。