スーパーの閉店前値引きとビッグモーター事件…人間の欲望が「需要と供給の法則」では測りきれないワケPhoto:PIXTA

アダム・スミスの『国富論』
実は「神」の文字はなかった!

 このような市場メカニズムのありようを最初に洞察して本を書いたのが、スコットランド出身のアダム・スミス(1723~90)でした。主著が有名な『国富論』(1776)です。ちなみに、2023年が生誕300年のアニバーサリーイヤーでした。

 スミスは、人々の活動を自由に放任しておけば、さまざまな商品が生産され、市場では最適な価格と生産量が「神の見えざる手」に導かれて決定し、人々の生活は豊かになる。これこそ国富である、と指摘しました。すなわち自由放任主義、そしてリベラリズムの起源です。今日、リベラリズムは中道か中道左派を表します。かなり意味合いが変わっていますね。

 アダム・スミスの論理は、それまでの国富に対する考え方をひっくり返したものでした。スミス以前は、国富とは貿易差額(黒字)の最大化を目指して蓄積する金銀財宝のことでした。そのために植民地を増やし、植民地から物産や貴金属を収奪していったわけです。

 自由主義の経済と経済学を描いた『国富論』の原文には、実は「神」の文字はなく、「見えざる手」とだけ書かれています。長大な『国富論』を通読した人はほとんどいないでしょうから、「見えざる手」が登場する箇所を紹介しておきましょう。いつのまにか「神」が付いて「神の見えざる手」と言われるようになりました。恐らく、自律的で自生的な秩序は神から授けられた秩序である、とするキリスト教的世界観に適合していたからでしょう。

 原文ではこう表現されています。

「生産物の価値がもっとも高くなるように労働を振り向けるのは、自分の利益を増やすことを意図しているからにすぎない。/だがそれによって、その他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて(led by an invisible hand)、自分がまったく意図していなかった目的を達成する動きを促進することになる。そして、この目的を各人がまったく意図していないのは、社会にとって悪いことだとはかぎらない。/自分の利益を追求する方が、実際にそう意図している場合よりも効率的に、社会の利益を高められることが多いからだ」(アダム・スミス『国富論』山岡洋一訳、日本経済新聞出版社、2007、英文は筆者の補足)。

「意図していなかった目的」とは、社会全体の利益=厚生のことでしょう。「見えざる手」という言葉は『国富論』第4編第2章に1カ所だけ登場するのですが、実は1759年に出版された『道徳感情論』で先に使用していました。これも1カ所です。

「富者は全生産物のなかからもっとも高価で快適なるもののみを選ぶにすぎない。かれらの自然的欲望と貪欲さにもかかわらず、富者は貧者と等量しか消費せず、また、富者は自分の便宜のみを考慮しており、自分が雇用する数千人の者の勤労に期待する唯一の目的が、かれら富者自身のくだらぬ、あくことなき欲望にあるとはいっても、しかもかれら富者は、かれらのすべての改善努力の結果たる生産物はこれを貧者とともに分かつことになるのである。かれらは、見えざる手に導かれて、土地がその居住者のあいだに均等に分割されていたならばなされていたであろうと思われるような、生活必需品の均等な配分を行なうようになるのである」(大河内一男監訳『国富論Ⅱ』の訳注『道徳感情論』について、中公文庫版第2巻p121)。

 ここでは、生活必需品は富者であろうと貧者であろうと、結局、等量が合理的に分配(消費)される、と書いています。つまり、放っておけば、最適な価格と生産量(購買量)が市場で決定される、ということです。

 アダム・スミス以降、およそ100年間、自由主義をベースとするイギリス古典派経済学の時代が続きます。需要・供給曲線のバッテン図は、アダム・スミスら古典派経済学者が作成したわけではありません。作成されたのは古典派の後、19世紀末の新古典派経済学誕生の時代でした。