今回の話で言えば、組織の非公式のルールについて、部外者から疑問を呈されるのですから、相手にとっては不快、不安な場合が多々ある。

 ただ、怒りは最初に感じる一次感情に次ぐ二次感情ですから、一次感情としては、まずは「戸惑い」なわけですね。目に見えるのは「抗議」や「反抗」という形かもしれませんが、必ずその前に、その人は何らかの事情で戸惑ってしまったのだということを理解したいところです。「反抗的な奴め」と個人を戒めにかかる前に、この人の熱量を怒りのほうへ向かわせてしまった組織の地雷は一体どこにあるのか?という視点で冷静に情報収集を続けたいものです。

「問題」とされる大半は
本質的には「問題」ではない

 ちなみにこの営みは、スムーズでタイパよく事が進むことを好む人にとっては特に、忌避される状況なはずです。しかしそこを避けると、問題の表層をなぞり、個人の能力の問題として誰かを悪者にするような、小賢しい手立てに終始するのがオチだと、経験上思うので、慎重かつ果敢にいきたいところです。

書影『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社新書)『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社新書)
勅使川原真衣 著

 誰も問題提起しないからこの現状があり、声なき声が埋もれているのなら、やれる状態にある人がやろうではないですか。さも当たり前のように大人がしたり顔で語るが、実はうやむやにされていそうな点について、自分が小学生になった気分で、「あのちょっと、スッと頭に入ってこなかったんですが」「今お話を伺っていて、一般的な○○のことばの意味とは違う感じがしたので、少し深掘りしたいのですが……」などと前置きしながら。

 また同時に、個々人の「解釈の傾向」と照らし合わせながら、職場を何度も見回り、実際の仕事の回し方を捉え、言語化します。そうしていると十中八九、当初「問題」とされたものが本質的には「問題」ではなさそうだぞ、と気づくのです。