平氏との戦いで大活躍した源義経。その功績がありながら、義経は兄である頼朝に滅ぼされてしまう。なぜ、頼朝は弟を殺すにいたったのか。そこには鎌倉武士のルールと兄のプライドが関係していた。本稿は、本郷和人「喧嘩の日本史」(幻冬舎新書)の一部を抜粋・編集したものです。
日本で敵を滅亡させるのは珍しい
源頼朝はなぜ平氏を滅亡させたか
未だによくわかっていないのが、そもそもの敵同士というわけではなかった平氏を、なぜ源頼朝は滅亡にまで追い込まなければならなかったのかという点です。
ひとつ考えられるのが、武士の常識として、相手を打ち破ったら相手が持っている財産を自分のものにできるという発想・考え方があります。世界の例に目を向けてみると、同時代人であるチンギス・カンの場合、打ち破った相手の財産も妻も、すべて自分のものにするというルールが働いています。
チンギス・カンも若いときに敵に妻を取られて、その結果、ジュチという息子が生まれています。おそらく自分の子供でないと考えて、後継者にはしませんでした。
また日本の歴史を通じて、敵方が完全に滅びるまでの厳しい戦いを行った例はほとんどありません。これが中国であれば、皇帝が変われば、旧来の皇帝の一族・家臣は皆殺しとなりますから、非常に厳しい。けれども、日本の場合にはそのようなことは起きません。その意味で、日本はとてもぬるいのです。
このようなことを考え合わせると、頼朝が平氏を滅亡にまで追い込んだというのは、やはり平氏を滅ぼせば、その財産が自分のものになるという点に理由があったのかもしれません。
実際問題、鎌倉幕府の初期の財政基盤は、全国に500カ所ほどあったという平家没官領でした。平氏が保有していた強大な財を奪取するために、源氏は平氏を滅ぼしたというのが、一番納得しやすい考え方かもしれません。
西へ西へと追い詰められる平氏は、一ノ谷の戦いとそれに続く壇ノ浦の戦いでとうとう、滅亡してしまうのですが、この戦いで目覚ましい功績を上げたのが、源義経でした。富士川の戦いの前後に、義経は奥州平泉から兄・頼朝の軍勢に加わるべく、関東へ参上していたのです。
平氏追討軍の総大将は、頼朝の弟・源範頼です。基本的に大将というのは、一番後ろに控えていて、実際に戦ったりはしません。
実質的に戦の指揮をするのは、当時はなんと言われていたかよくわかりませんが、戦奉行とか侍大将に類する人物でした。当時の鎌倉幕府には、軍事を司る侍所という機関がありました。この長官である侍所別当は和田義盛が、副長官は梶原景時が担っていました。彼らが実際には、この戦を執り仕切っていたのです。