源氏山公園の源頼朝像Photo:PIXTA

貴族の世から武士の世へ、大きなターニングポイントとなった平治の乱。源氏が敗れて源義朝は死刑、源頼朝が流罪になったこの権力闘争において、実は後ろに黒幕がいた。これまで何人もの歴史学者が解明に挑み敗れた、「極上の歴史ミステリー」の真相とは。本稿は、桃崎有一郎『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。

ロマンに満ちた謎もなく、学説も乱立
マイナーな平治の乱を追う意味とは

 平治の乱の真相を語ることには、独特の壁がある。

 そもそも知名度が低い。学校では保元の乱とセットで暗記させられただけで、よくても次のような粗筋を習う程度で終わる。保元の乱で勝ち残った勢力が、内輪もめを起こした。政権を主導する信西に対して、廷臣の藤原信頼と武士の源義朝が不満を抱き、反乱を起こした。しかし、官軍の平清盛に撃破され、清盛が武士の生存競争の最終勝者となった、と。

 話のスケールも小さい。皇位や摂関の地位を奪い合った、保元の乱のような政治的スケールがない。源平合戦のように、数千~数万の武士が、全国規模で何年も戦うというスペクタクルもない。平治の乱では、ほんの数百の軍勢がたった数時間、狭い京都盆地で戦っただけだ。

 ロマンに満ちた謎もない。〈本能寺の変で信長暗殺を企画した黒幕は誰か?〉とか、〈邪馬台国はどこにあったのか?〉といったような、歴史本や歴史番組の花形には遠く及ばない。

 しかも、いざ本気で調べようとすると、学説が乱立しており、何を信じるべきかわからない。

 戦後歴史学の古典的通説はこうだ。当時、天皇の直系尊属として元天皇が政務を執る政治、すなわち院政が定着していた。そして後白河上皇の院政は、信西が実質的に主導していた。これに対抗心をむき出しにした一派が、二条天皇の親政(天皇が親ら政務を執る政治)を望んで信西一派を没落させた、と。“二条親政派暴発説”というべきこの通説は、平治の乱を正面から扱った戦後最初の専論だった飯田悠紀子氏の『保元・平治の乱』でも踏襲された。

 ところが、近年に出た三冊の平治の乱の専論のうち、二つがこの通説を否定した。まず河内祥輔氏の『保元の乱・平治の乱』は、信西を抹殺する後白河の策略だという“後白河黒幕説”を主張した。しかし、続く元木泰雄氏の『保元・平治の乱を読みなおす』はこれを全否定し、信西の台頭に反感を抱いた後白河の近臣たちと朝廷社会全体が、信頼をリーダーとして信西を抹殺したという“朝廷総がかり説”を主張した。さらに、古澤直人氏の『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』はどちらも否定し、二条天皇の親政を推進する一派が、信西を恨む信頼や義朝と組んで信西を抹殺したと、“二条親政派暴発説”に戻った。

 これらの前に、別の黒幕を名指しする説もあった。“二条親政派暴発説”を肯定しつつ、それを戦乱として激発させたのは平清盛の策謀である、と主張した多賀宗隼氏の説だ。この説には先の飯田氏や、この時代の研究の泰斗というべき五味文彦氏らが賛同してきた。