その点、兄弟、特に弟を殺すという例は、多く見られるのです。権力者の兄からしてみれば、家臣たちが自分への信頼をなくしたとき、自分のことを否定して弟と取り替えるというのが最も据わりがよいわけです。

 年もさほど離れていなければ、血も近いというわけで、家督を継がせるにはちょうどいいのです。兄の代わりに弟を担いで家臣たちが謀反を起こすということは十分に考えられることでした。

 ですから、弟を殺している権力者の例はかなり多く、まず本章で扱っている源頼朝がそうです。室町幕府を開いた足利尊氏も弟の直義を殺しています。戦国大名では織田信長、毛利元就、伊達政宗なども弟を殺しているわけで、その意味では弟というのは権力者にとって最も近く、最も危険なライバルだったのです。

「いつか義経は排除しなければ」
頼朝は警戒していた

 逆に弟を使いこなした例というのは本当に少なく、すぐに思いつくのは、武田信玄と豊臣秀吉くらいでしょう。弟の扱いというのはそれくらい難しく、弟が有能だからと可愛がり、権限を与えすぎると、逆に自分がやられる結果になるということなのです。

 そういう兄弟の関係もあったことから、頼朝としては次第に存在感の増大する弟の義経を警戒し、自分の権力を盤石なものとするには、いつか義経を排除しなければならないと考えていたのだろうと思います。

 このような頼朝と義経の兄弟の根本的な確執があるなかで出てきたのが、後白河上皇による源義経の重用と、任官の問題でした。

 しばしば御恩と奉公の関係と言われるように、武士の政権は主従関係を根幹としています。特に「武士の、武士による、武士のための政権」である鎌倉幕府を樹立した武士たちにとって、最も重要なことは自らの所領の安全を保障してもらうことでした。

 武士政権の棟梁である源頼朝は自らの名のもとに、武士=御家人たちの所領を安堵します。この御恩に報いるために、御家人たちは有事の際には自らの武力でもって、政権に敵対する勢力と戦うのです。これが御恩に対する奉公です。