源頼朝が義経を自ら討たなかった理由、権威を高めた「緻密な戦略」とはPhoto:PIXTA

奥州藤原氏の最盛期を支え、源義経を庇護した藤原秀衡(ひでひら)。しかし秀衡亡き後、奥州藤原氏は滅亡の道をたどっていくことになります。その背景には、源頼朝が自身の権威を増大させるための「緻密な策略」がありました。(歴史学者 濱田浩一郎)

奥州にいる義経を
自ら討とうとしなかった頼朝

 1187年10月29日、息を引き取った藤原秀衡。奥州藤原氏の最盛期を支え、源義経を庇護した人物として知られています。死去に際して、秀衡は息子たちに、義経を「大将軍」として奥州の支配を行えと遺言したといいます(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』より)。

 しかし、そうした秀衡の願いもむなしく、秀衡の後継者である藤原泰衡と義経の対立は深まり、やがて奥州藤原氏は滅亡へと近づいていきました。

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義経は奥州に滞在しているとき、農作業に専念し、軍事行動には無縁のように描かれていましたが、実は奥州にいる間も合戦の指揮をしていた可能性が高いです。もちろん、積極的に戦をしようとしたとは思われませんが、攻めてきた者は撃退してやるとの意思は強く持っていたと考えられます。貴族・九条兼実の日記『玉葉』によると、1188年2月、出羽国の知行国主・藤原兼房が派遣した軍勢が、出羽で義経と合戦。兼房が派遣した軍勢は鎌倉に逃亡したといいます。

 こうした出来事により、義経が東北に潜伏していることが鎌倉に露見しました。義経が奥州藤原氏のもとにいることを知った源頼朝は、泰衡に義経追討を行うように圧力をかけたのです。泰衡には、義経追討の宣旨(天皇の命令を伝える文書)や院庁下文(上皇の政務機関である院庁から出された文書)が発給されました。

 しかし頼朝は、自ら軍勢を派遣し、義経を討とうとはしませんでした。なぜか。